なぜ車内通話はいけないのか

「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください。それ以外の場所ではマナーモードに設定のうえ、通話はご遠慮ください」

 かつては日常的な音の「風景」となっていたセリフです。最近はあまり気にも留めない人が多いと思いますが、まだまだ健在です。このセリフ、かつては電車内のみならず、人の集まる様々な公共の場所でも聞かれていました。車内通話に関しては、医療機器等に影響を及ぼすから優先席付近での携帯電話の使用を控えるという決まり事でした。それでは、なぜ優先席以外でも車内通話が禁止されなければならないのでしょうか。うるさいから他人の迷惑になるという意見が主流ですが、それは本当でしょうか。車内での普通の対面的な会話はごく当たり前になされているし、会話のボリュームが多少高めな乗客もいます。そんな乗客にわれわれが目くじらを立てることはあまりないです。その一方で、車内通話をしている乗客に対しては、たとえそれが周囲を考慮して小声でなされているものであったとしても、いまだに不快感を感じることがあります。だとすれば、声のボリュームが高いとか低いということが問題なのではないのかもしれません。

通常、電話での会話は対面的な会話とは異なり、話し相手はそこにはいません。車内通話をする側の声しか聞こえず、話し相手の声が聞こえないので、周囲でそれを耳にする他の乗客としてはそれをリズム感のある会話として認識することができないのです。それゆえに何か困惑を感じてしまうのではないでしょうか。たとえば次のような話し声を聞くとしましょう。「もしもし.....えっ?どうしてよ?.....えっまた?.....どうするの?.....大変ね」と。ダンボのような聞き耳を立てる乗客だけではなく、普通の乗客にとってもどこか消化しきれない「会話」のリズムです。何があったのか、何が「また」なのか、どうするのか、何が大変なのか。気になります。この独り芝居のような車内通話も、当事者の間では美しいリズムとハーモニーを伴ったものとして構築されていることでしょう。「もしもし/ああボクだよ。今日は行けなくなったんだよ/えっ?どうしてよ?/親が突然上京してきてさあ/えっまた?/うん、こないだ来たばっかだけどね、今回は急に仕事が入ったんだってさ/どうするの?/中華街にでも連れて行けば喜ぶでしょ/大変ね」という具合に。

車内通話は、当事者と周囲の乗客との間では全く別なものとなって現れるのです。会話につながりのない無機質な音は、静かな車内という公共空間であるから特に気になります。だからこそ余計に不快感をおぼえるのではないでしょうか。つまり、車内通話は声が「聞こえる」から迷惑なのではなく、通話相手の声が「聞こえない」から迷惑なのではないでしょうか。周りの乗客には受話器の向こう側の言葉は届きません。向こう側の言葉に対応する目の前の電話利用者の言葉が聞こえるのみなのです。相手の言葉が聞こえず、こちらの言葉しか耳に入ってこないから躊躇してしまう。うまく波に乗れないままに、読書なりスマホ操作なりを余儀なくされるのです。

タンゴは1人では踊れません。コミュニケーションは相手があって初めて成立します。そしてそのようなコミュニケーションも、単に当事者だけのものではなく、周囲の他者をも巻き込んだものとなります。そこで刻まれる会話のリズムが幾重にも束となったものが、やがては公共空間というハーモニーを奏でるのです。そのような前提を社会が想定しているのかもしれません。かといって、ハンズフリーによる車内通話ならば相手の声も聞こえるでしょうけど、機械から発せられる声には臨場感がありません。人形を相手にして踊るタンゴに躍動感が無いのと同じことです。

通話相手との密室的なタンゴは、当事者にとっては心地よいものでしょう。しかし独り言やマスターベーションと同じように、周囲の他者にとっては至極迷惑なものとなります。相手がいるからタンゴは成立するのです。規律正しいタンゴの形式に敬意を払わない車内通話は、車内空間という平穏な劇場の存在を脅かし、日常の音の「風景」を変容させるのであります。