感情的で何が悪いのでしょうか?

SNSなどの書き込みを見ていると「それは感情論でしょ」とか「まあまあ、感情的になるなよ」といった場面に出会します。論理的と理論的を混同している人がいますが、今回は「感情論」と「感情的」の混同を紐解きましょう。

「感情論」とは「理知的でなく、感情にかられた、また主観にかたよった議論」をいい、反対語は「論理」です。一方、「感情的」とは「理性を失って感情をむき出しにするさま」をいい、反対語は「理性的」です。ある主張に対する根拠が好きとか嫌いといった快不快を根拠とするのであれば「感情論」であり、筋の通った根拠を提示したのであれば「論理」としておきましょう。そして、ある主張に対する根拠に限らず主張それ自体をも感情むき出しにするのであれば「感情的」であり、冷静に対処したのであれば「理性的」としておきましょう。

「感情論」と「論理」と「感情的」と「理性的」が複雑に絡む場合もあります。事例で考えてみましょう。「なぜクジラを捕獲してはいけないの?」と質問されたときに冷静に「かわいそうだから」と答えるのは「理性的」な「感情論」で、感情むき出しに「かわいそうだからよ!」と答えるのは「感情的」な「感情論」です。「なぜクジラを捕獲してはいけないの?」と質問されたときに冷静に「激減して絶滅寸前だから」と答えるのは「理性的」な「論理」で、感情むき出しに「激減して絶滅寸前だからよ!」と答えるのは「感情的」な「論理」です。

論理と対比される「感情論」、そして理性と対比される「感情的」。この2つをしっかりと区別しないで議論している場面に遭遇することがあります。論理的に正しいことを感情を露わに叫ぶことは「感情的」ではあっても「感情論」ではありません。例えば「全ての哺乳類は動物であるけど、全ての動物が哺乳類であるとは限らない」とグツグツと煮えかえる鍋のように感情むき出しに主張したとしても、それは感情的であっても感情論ではありません。

このように、感情論と感情的はしっかりと区別しなければなりません。なぜか。議論の場面で本当に厄介なのは感情論であって、感情的であることにはそれほど問題はないものと考えて良いからです。それでもわたしたちはたびたび「感情的」なひとたちを見下す傾向にあります。なぜなのでしょうか。感情論がなぜイケないのかどうかについては別の機会に譲るとして、今回は感情的で何がイケないのかを検討してみたいと思います。

わたしたちは時に感情的になって笑ったり、泣いたり、そして怒ったりします。感情を露わにして爆笑することに対して社会は非常に寛容であります。誰かが口にしたジョークに対して声に出して笑っても「感情的になるんじゃありません」と叱られることはありません。通夜で故人を偲んでシクシクと泣いても「感情的になるんじゃありません」と叱られることはありません。でも議論などでたとえそれが激昂でなく静かな怒りであったとしても「感情的になるんじゃありません」と叱られます。なぜなのでしょうか。

「感情コントロール」という言葉があります。これは通常は「怒り」をコントロールすることを意味します。他人が同席する場において無意識であったならば表出してしまうであろう「怒り」をコントロールすることは、それを意図的であれ非意図的であれ表出するのではなく内部に仕舞い込むことを意味します。つまり感情コントロールは通常は感情を内側に隠すことを奨励するのです。

しかしながら、わたしたちはここぞとばかりに憤慨するタイミングを見計らうことがあります。怒りが自然と内側から湧いてくるのではなく、不自然に外側に向けて発しなければならない状況です。大人が子供を叱る場面がそれにあたります。相手に舐められないように敢えて怒りを表出するとき、わたしたちは怒りという感情を外側に向けてコントロールしているのです。

外側に向けた感情コントロールは怒りに限らず、例えば愛想笑いなどは外側に向けた感情コントロールですが、不自然な笑みが高じて心の底から笑いたくなるようなこともあります。また、葬式に雇われる泣女の例を出すまでもなく、わたしたちは日常において死者との生前の経験を共有していることを周囲に示すために葬式で故意に泣いたり、卒業式の集合記憶を維持するために集合行為的に泣いたりすることがある。これらはすべて隠すための感情コントロールではなく見せるための感情コントロールです。

それにもかかわらず、わたしたちは普段「感情をコントロールしなさい」と言われると感情を内側に隠すことのみを意味するものと勝手に解釈しているようです。でも本当は感情コントロールというのは内側にも外側にも方向づけられたものなのです。感情を内側(in)に押さえ込んだ(press)ものが「印象/感動(impression)」であり、それが外側(ex)に押し出された(press)ものが「表出/表現(expression)」となるのであって、そこにあるのは感情に変わりはないのです。

したがって、感情的になることは何も悪いことではないのです。笑ったり泣いたりすることが許されるように、怒りを表出することもまた立派な感情コントロールなのであります。怒りたければ怒れば良いのです。とは言っても、ボクは相手を罵倒することを奨励しているのではありません。ボクはただ感情的になることの大切さを唱えているのです。外国人に文句を言いたいときに、無理して外国語を話す必要はありません。示さなければならないのは語学力ではなく怒りなのですから、日本語でひたすら怒りを露わにすれば良いのです。「何を言っているか」を相手に伝える必要はありません。「何を感じているか」を相手に伝えることが重要なのです。相手にしても、たとえ日本語を理解できなくても「コイツ怒ってるな」ということは理解できます。怒りを相手に伝える目的は、同語反復になりますが、怒りを伝えることなのですから。

コロナ自粛が原因でしょうか、思うように行動できない昨今のストレスから人々は感情的になり、同時にそれに対する批判も多く見受けられます。繰り返しますが、罵詈雑言を奨励しているのではありません。感情的になることの意義を問うているのです。感情論でない限りにおいて、感情的になることは情動の可能性を地平の果てへと導いてくれることでしょう。