事実「である」こと、事実「と感じる」こと

わたしたちは普段の生活において毎日のように事実認定を余儀なくされます。ある報道が事実であるかフェイクニュースであるか、あるいはもっと身近なケースとしては配偶者や恋人の浮気や二股の事実認定というのがあります。わたしたちは事実を知ることに躍起になるのです。事実を知ることは大変に重要であるように思われます。しかし事実であるかどうかはそれほど重要ではない場合もあります。例えば刑法230条は次のように名誉毀損罪を規定しています。

公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。[刑法230条]

「事実の有無にかかわらず」とあるように、他人の名誉を毀損するような発言の内容が事実であるかどうかはそれほど重要ではないのです。事実であろうがなかろうが名誉毀損罪は成立しうる。言い換えれば名誉毀損罪を成立させるためには発言内容の客観的な事実認定などはどうでもよいことなのです。どうやらある事柄が実際に起こった事実であるかどうかは私たちが想像する以上にどうでもよいことなのかもしれません。

もう少し違う角度からこのことを考えてみましょう。本当は事実であるのに世間的には事実ではないと受け止められるケースもあれば、その逆に、本当は事実ではないのに世間的には事実であると受け止められるケースもあります。マルコ・ポーロの有名な『東方見聞録』は実際には事実を記述した旅行記ですが、当時の人々はこれを作り話(虚構)と解釈してたらしいです。逆に、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』は空想物語(虚構)ですが、社会風刺としては当時の人々にとってはかなりリアルなものだったそうです。

それではいったいなぜ事実と虚構の反転がこうも簡単に起きてしまうのでしょうか。1つの事例として、日本は単一民族国家であるかどうかを検討してみましょう。長いこと信じられてきた日本の単一民族国家説は学術的研究によって崩壊し、今では日本が単一民族国家ではないのは「一部」の人々にとっては「事実」になっています。中国系日本人や朝鮮系日本人そしてアイヌ民族の存在を根拠とした「日本は単一民族国家ではない」という主張です。

確かにそうでしょう。歴史的および統計的な「事実」は日本が「複数民族国家」であることを明示しているようです。しかしながら、一般的な多くの日本人は縁遠い「事実」ではなくもっとリアリティを伴った感覚としての「事実」として日本の民族構成を考えているようです。これは感覚的なリアリティといいますが、民族構成の実態として云々ではなく、わたしたちが「単一民族である」という感覚的なリアリティを確たるものと理解しているという点において、実は日本は単一民族国家なのかもしれません。

わたしたちの多くが日本は多民族国家であるということに、あるいは単一民族国家ではないということに、リアリティを感じるか否か。そこが重要なのかもしれません。わたしたちの感覚的なリアリティを無視した客観的な民族構成を掘り下げることにはあまり意味がないのかもしれません。

実は「事実か虚構か」または「事実か嘘か」もしくは「事実か空想か」というのはそれほど重要なことではなく、あることを「事実であると感じさせる」ことが重要なようです。

お馴染みの「バーチャル・リアリティ」は「仮想現実」と訳されますが、実は「バーチャル」という言葉には本来は「仮想」や「虚構」という意味はありません。「バーチャル(virtual)」は正確には「事実上の」を意味します。日本語では「バーチャル・リアリティ」は現実のように見えるけど実際には「現実ではない虚構」と解釈されますが、英語の「バーチャル・リアリティ(virtual reality)」は形式的ないわゆる現実とは異なるものの事実上は「現実と同じようなもの」といったニュアンスで解釈されています。

つまり日本語では「バーチャル・リアリティ」を「現実と虚構の対立軸」というフレームで捉えているのに対して、英語では「バーチャル・リアリティ」を「現実の在りよう」すなわち「形式と実質の対立軸」というフレームで解釈しているのです。形式的な平等に対して実質的平等というのが問題になることがあります。文言上もしくは科学的な平等であったとしても、実体としての平等を感受できなければ平等は絵に描いた餅になってしまいます。つまり人々にとって重要なのはそれが「事実上」はどうなのだろうか、またはそれを感覚的なリアリティとして受容できるのだろうかということなのでしょう。

おそらく犯罪の構成要件というパズルを完成させて罪状認否を成立させる場合など特別な場合を除いて、ものごとの真理や本質を解明するのに事実認定というのはそれほど重要なものではないのかもしれません。事実か虚構かといった「低俗」な問題に振り回されているあいだに、真理や本質はわたしたちの出会いを首を長くして今か今かと待ち焦がれていることでしょう。