隣人の微笑みを鵜呑みにしますか?

日常生活において見知らぬ他人はすっかり当たり前の光景となりました。かつての近代以前は道行く誰もが顔見知りで、今でも辺鄙な村や過疎地においてはそのような閉じた社会が普通に存在していますが、それ以外とりわけ都市においては道行く人々は見知らぬ他人(ストレンジャー)となってしまいました。

当然にしてそんな道行く他人に挨拶をすることなどないのが都市的生活の原則です。通りすがりに誰かと肩が触れたり、落とし物を誰かが拾ってくれたりといった何らかの理由が無ければ他人に声を掛けることが無いのが原則です。でも原則には例外もあって、例えば都市居住者が休日に登山に出かけて山を登る際に、山中の他の登山客とすれ違う際には挨拶の言葉が自然と出てきます。きわめて自然に。でもそういった特別な状況以外ではやはり見知らぬ他人とは挨拶を含め一切の関わりを持ちたくないというのが都市居住者の「マナー」であるようです。

ところで、海を越えて海外では事情は少し異なるようです。アメリカ人などは都市部においても通りすがりで目と目が合うと微笑んだり軽く挨拶することがあります。西欧人一般的に、そして西欧人以外の人々でも知らない者同士が軽く言葉を交わす光景を海外で見かけることがあります。では彼らはわたしたちよりも他人に対して親密的なのでしょうか。そのことを検討するにあたって、次のような事例を取り上げてみたいと思います。

エレベータに乗り合わせた欧米人が見知らぬ他人に軽く挨拶する光景を目にします。一般的には、彼らがフレンドリーだからということになっていますが、そうでもなさそうです。彼らがエレベータ内で声掛けするのは彼らが友好的だからではなく、むしろ見知らぬ他者を恐れているから、そして自分は安心していい人物ですよというメッセージを同乗する他者に伝達しているという解釈です。

笑顔や賛同は攻撃を回避するための装置として機能する場合があります。相手を怒らせないために、したくもない笑みをこぼすのを誰もが経験したことがあるでしょう。怒ってもいないのに怒った表情を演出しなければならないのは子育ての現場ではつきものです。悲しくもないのに悲しい顔を取り繕って葬儀という状況に見合った振る舞いをするのも同じことです。泣女のごとく過剰に涙を演出する場面も諸外国では見かけられます。それらと同様に、嬉しくもないのに笑顔という仮面でその場に定義された状況を維持しようとすることもあります。エレベータでの親密な笑みというのもその延長上にあると考えられます。

ある特定の状況で要請される表情に応えることなく自らの感情の「我」を通したとしても周囲の制裁を受けることはほとんどありません。せいぜいあなたの評判が悪くなる程度です。こういったケースではたいした制裁を受けることがないので「世間体維持のための仮面」をわたしたちは着脱します。

しかしエレベータの場合は事情が異なるようです。閉鎖された空間では事件がつきものです。相手の安全性を確認し、自分も相手に自らの安全性を確認してもらう。もし相手が危険人物であったり相手の気分を害するようなことがあってはいけません。こういったケースでは振る舞いに失敗した場合のリスクが大きいので「自己防衛のための仮面」をわたしたちは着脱します。

BLM運動で多くの白人が差別反対運動に参加しました。黒人と白人が共に「共通」の目的のためにストリートを行進するのです。行進する「われわれ」とそうでない「彼ら」という対立。本当は黒人が嫌いな白人であったとしても、行進に紛れていれば少なくとも自分の身に危険が及ぶことはありません。そうやって多くの隣人が差別反対運動を隠れ蓑として「自己防衛のための仮面」を着脱しながら影で微笑んでいました。