「反知性・主義」vs「反・知性主義」

反知性主義」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一般に日本では「知性」に対する反発や抵抗ととらえられています。勉強なんかできなくても体力が抜群だから良いんだよとか、頭の良いヤツよりも体が動くヤツの方が使いものになるよといったセリフの中に凝縮されていますが、要するに、「知性」を否定する考え方です。かつての学歴神話がバブルとともに崩壊したことによって、知性が使いものにならないという考え方は、勉強できない人たちが勉強しなくても良いのだと正当化する動機付けを強く促すことに成功したようです。その昔は「いい子ぶる」ことに不快な思いをすることもありましたが、最近は「悪ぶる」ことが不快感を催すことも少なくないようです。かえって「いい子ぶる」より格好悪く見えるのはボクだけでしょうか。このように、知性に反発する考え方を「反知性主義」とする考えがあります。

しかし、実は「反知性主義」というのは本来は「知性」に抵抗することを指すのではなく、「知性偏重」の考え方に反発することを指すのです。この考え方はアメリカで誕生したものです。頭がいいんだからアイツの言うことは間違いないとか、勉強できるんだからきっと世の中を良くしてくれるといった考え方、つまり「知性」に偏った解釈を施すことに対するアンチテーゼとして生まれたのが「反知性主義」の本当の意味なのです。この点についての詳細は神学者の森本あんり氏の本が大変に参考になります。

まとめると次のようになります。日本で考えられている「反知性主義」というのは「知性」そのものに対する反発あるいは妬みや嫉みを指すという意味において「反知性」の「主義」すなわち「反知性・主義」なのです。一方、アメリカで生まれた「反知性主義」というのは「知性」そのものに対する反発あるいは妬みや嫉みを指すのではなく、「知性」を伴った偏見あるいは知性を重視した「知性主義」に対する反発すなわち「反・知性主義」なのです。「反知性・主義」と「反・知性主義」の違いです。

4年前にトランプ大統領候補が標的にしたのは、いわゆる既得権益といわれるエスタブリッシュメントと言われます。知性があるゆえに登り詰めることができた地位や役職に固執する「いい子ぶる」人たちのことです。それまでそういう知性主義に騙されてきたアメリカ国民の多くが反旗を翻したと言ってもいいでしょう。今日はスーパー・チューズデー。14の州で予備選挙が行われていますが、トランプ支持者の意見を聞いていると、やはり既得権益であり知性のかたまりであるところのメディアの言うことを信用せず、自分の目で見て自分の耳で聞いて判断するという傾向が非常に強いなという印象を得ました。

今日、街に出るといつもよりもひっそりとしていました。コロナウィルス関連の一連の報道を受けてのことなのかどうかは分かりません。ただ、それまでは活発な人の動きを感じることができた空間に突然の空白が生まれてしまうことについて考えてみました。事態が読めないという状況において、事態が読めないからということだけを理由に何かをすることに躊躇してしまう。流れてくる一方的な情報のみでは真実を把握することは困難です。でも、メディアというのは決して一方的な媒体ではありません。受信する側がそれをどのように解釈し、不足する情報を得たり、疑問に感じることに問いを発してみることによって、媒体は本来の健全な双方向的なメディアへと変容する。情報が不十分であることを理由に活動をやめるということそれ自体がメディアの餌食へと自分自身を導くことになる。

凝り固まった自分の考えを柔らかくするには、知性に対して疑問符を付すことで「反・知性主義」へと自分を解き放つことではないでしょうか。脳は性欲の反応として勃起を促すけれど、脳それ自体が勃起するような知性のあり方に変化をもたらすことができるのは、もしかしたら知性主義への意識改革なのかもしれません。

 

参考文献
森本あんり『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮社、2015年