嗅覚の復権

昨日と今日で引越業者数社が引越料金見積訪問のために我が家にやって来ました。数名が家に出入りするたびに業者さんの「におい」が気になりました。クサいとかそういうことではなく、みんなそれぞれに「におい」が異なるので面白いなあと思っただけです。そしてさらに面白かったのが、それぞれの「におい」を嗅ぐたびにボクの中にある記憶の引き出しが1つずつ引き出されて過去の様々な場面が目の前に広がったことなのです。

景色からではなく匂いで記憶が呼び起こされることが多く感じるという意見を知人から聞きました。郷愁にかられた事例として彼らが挙げていたのはセブンイレブンマクドナルドでした。郷愁とまではいかなくても外国製柔軟剤が海外のコインランドリーの記憶を呼び起こしたり、体臭のきつい先輩がキーマカレーを思い出させたりするといったお話もされていました。おそらくみなさんも似たような感覚を体験されたことがあるでしょう。

ところで「におい」を嗅ぐことから記憶がよみがえることを「プルースト現象」と呼ぶそうです。小説家プルーストの『失われた時を求めて』という作品の中に紅茶に浸したマドレーヌを食べた瞬間に幼い頃の記憶が鮮明によみがえってきたという記述があることから「プルースト現象」と呼ばれるようになったそうです。

寒い冬の日に家に帰ってきた主人公は、母が出してくれた熱い紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ瞬間、素晴らしい快感に襲われ、何か貴重な本質で満たされたと感じる。最初はそれが何だかわからなかったが、やがて、幼いときに親戚の叔母が紅茶か菩提樹ハーブティーに浸して出してくれたマドレーヌの味だと気づく。それと同時に生まれ育った町の思い出が一気に、全面的に、生きた姿で立ち現れてきたのだった。

なんと素晴らしい描写でありましょうか。五感の中で一番地味な感覚をここまで大切に扱っていることに感動いたしました。よくよく考えてみると「触覚」を除いてわれわれは「視覚」重視の世の中に生きているような気がします。世の中「見た目」が重要であり、美しい絵画を鑑賞するにも視覚が前提であり、例外はありますが一般的には視覚によって知識を獲得します。その次に「聴覚」がくるのでしょうか。他人の言葉を理解することができるのみならず自分の発した言葉が反射して聞こえることによって自分の発話を調整する機能を活かせるのも、そして音楽好きが大好きなオルタナを堪能できるのも「聴覚」があってはじめて成立します。そして「味覚」でしょうか。グルメなみなさんの安寧を支えているのは「味覚」があってのことでしょう。

それに比べると「嗅覚」は他の感覚ほどは重視されていないように思われますが、ボクは個人的にはものすごく嗅覚を大切に感じています。残念ではありますが、どうやら人間の嗅覚は五感の中で一番退化しているようです。しかし嗅覚は最も執念深い感覚であるということをみなさんはご存じでしょうか。触れたくないものに対しては移動することによって触覚回避することができます。見たくないものに対しては目を塞ぐことによって視覚回避することができます。聞きたくないものに対しては耳を塞ぐことによって聴覚回避することができます。味わいたくないものに対しては口にしなければ味覚回避することができます。しかし嗅覚はどうでしょうか。嗅ぎたくないものに対しては鼻をつまむことによって嗅覚回避することができると思っていませんか。

以前ですが、山羊汁なるものを食べました。においと味が強烈だという噂は聞いていたのですが、いざ目の前に山羊汁が運ばれた時の「におい」に特に違和感はなく、食べたときの味も噂に聞くほどのものでもなかったです。なあ~んだと安心してもぐもぐと平らげてしまいました。食べているときは気づかなかったのですが、どうやら山羊汁の「におい」が少しずつボクの体内を完全制覇しはじめていたようです。お店を出て歩き始めた途端に何かを感じ始めました。ボクの体中から山羊汁が「におい」を発しはじめたのです。その独特な「香り」いや「臭み」が鼻をついて離れません。ボクはそのときはじめて嗅覚という自分の五感の一部に対して途方もない疎外感を感じ、他の感覚のように簡単に回避することが容易なものではないことを悟りました。

「食べなければ回避できたのでは」という完了仮定法的なコメントが当時のボクに多く寄せられたのを覚えています。でもそんなことよりもボクが一番驚いたのは「におい」の驚異的な執着心なのです。体から発せられるあの独特のニオイとここでは敢えてカタカナで明記しますがその意図が何たるかはみなさんの嗅覚にお任せするとして、あの独特のニオイが翌日になってもボクの服に付着したままだったのです。耳鳴りがする特別な人を除いて、前夜のライブで耳にしたお気に入りのアーティストの曲が文字通り耳に付着したままで聴覚を悩ますほどの体験をしたことがあるでしょうか。あるいは極度の精神障害の事例を除いて、前日に目にした衝撃的な事故シーンが文字通り目に焼き付いているなどという体験をしたことがあるでしょうか。比喩としてはあったとしても、音は耳に付着しないし、景観は目に付着することはありません。しかし「におい」は付着します。「におい」は五感の中で一番執着心が強いです。にもかかわらず、われわれは嗅覚を少しないがしろにしているような気がしてなりません。

においには何か特別な要素があるように思えてなりません。プルースト現象にしてもそうですが、においと嗅覚には何か特別な関係があるように思えてならないので、いろいろと調べてみました。するとやはり「嗅覚」は「視覚」や「聴覚」と比べると記憶を呼び起こす作用が強いという研究報告をした学者がいました。なるほど、景色からではなく匂いで記憶が呼び起こされることが多く感じると述べていた知人の言葉もうなずけるわけです。ボクも柔軟剤ダウニーの香りでアメリカのコインランドリーの記憶がよみがえります。納得できました。

プルーストはただの小説家ではなく記憶分析でただならぬ功績を残したそうです。過去の記憶を主体的に「思い出そう」とする「意志的」なものに対してプルーストは「無意志的記憶」というものを提示したとのこと。それは「こちら」から積極的に働きかけることなく「あちら」から勝手にやって来る記憶を意味するそうです。その切っ掛けになるのが「におい」なのだそうで、視覚のように理性的な感覚ではなくむしろ感性的な感覚なのだということを小説という装置を用いることによって提起したということです。

以上、嗅覚の力強さについていろいろと取り上げてみました。ではそんな嗅覚に対してわれわれはいったいどのように向き合っているのでしょうか。次回はこれについて考えてみたいと思います。