世の中に「主張」というものは存在しません

議論や討論や報告会や発表会での風景。まずAさんの主張があります。その後にBさんの反論があります。そのBさんの反論に対してAさんの反論があり、後はAさんとBさんの反論合戦が延々と続きます。主張があって、その上で反論がある。おそらく多くの人がそう考えていることかと思います。でも、それ、間違ってますから。世の中にあるのは、まずAさんの反論、そしてそのAさんの反論に対してBさんの反論があり、後はAさんとBさんの反論合戦が延々と続くのです。最初は「主張」ではないんです。最初から「反論」なのです。「主張」なんてどこにもないのです。

そもそもなぜ主張しなければならないのでしょうか。主張とは何でしょうか。例えばボクが「1+1=2なんです」と言ったとしましょう。それはボクの主張でしょうか。違いますよね。ではボクが「実は1+1=3なんです」と言ったら、もしかしたらこれは何か意味があるのではないかと想像しますよね。だからこれは主張なんです。何が違うのでしょうか。それは、「1+1=2」が常識をただ叫んでいるだけなのに対して、「1+1=3」は誰もが信じて止まない常識に挑んでいるのです。つまり、常識に対して「反論」しているのであります。誰でも知っている、当たり前のことをただ叫ぶのは主張ではありません。だからそんな「主張」はする必要が無いのです。「主張」とは、他人がおそらくこうであろうと思っている常識を覆す試みを指すのです。

勘の良い方はもうお分かりだと思いますが、われわれが何かを「主張」するとき、それは「一般にはこれこれこうだと考えられていること」に対して「でもちょっと違うんじゃないかな」と問題提起しているのです。言ってみれば、それは一般的な考えに対する反論なわけなんです。だから「主張」は最初からすでに「反論」であるわけであって、それゆえに「主張」なるものは最初から存在しないとボクは「主張」しているわけであります。(ボクのこの「主張」がすでに「反論」であることは言うまでもありません)

世の中、見方を変えればいろいろと見えてくるものがあります。民法には発信者主義と受信者主義というのがありますが、実生活においては、どちらが発信者でどちらが受信者であるかの見極めが困難な場面が多々あります。最初に告白したのはアナタよ。いやオレじゃなくオマエだよ。どちらが告白したのかが分からなくなることもあるし、明確な場合もあります。でも明確なつもりが、本当のところは明確でないこともあったりします。告白したのはワタシだけど、ワタシが告白することを促したのはアナタだから、アナタが告白したも同然なのよ。そんなシーンを思い浮かべてください。このようなシーンは別れの際にもよく見受けられます。カレにフラれたのと言うカノジョ。カノジョをフッたカレは悪者扱いされます。カレの言い分を聞いてみると、カノジョに魅力を感じなくなったからだと。言い換えれば、カレに対して魅力を感じさせることを意図的であれ非意図的であれ生じさせたカノジョは、カレの視点から見れば自分に魅力を発信することをやめたのであり、そのことはカレをフッたことに等しいわけであります。たとえ実際に「別れよう」と言ったのがカレであったとしても、カレにそう言わせてしまうカノジョに原因があったとカレが解釈したのであれば、カレはカノジョにフラれたのであります。

よくこういうことを言う人がいます。「自分にもっと刺激を与えてくれる環境が欲しい」と。自分に刺激を与えてくれる人を望んでいるそうです。相手の視点で考えてみましょう。相手は相手で皆さんから刺激を求めることでしょう。皆さんは、そんな相手の方々の期待に添うような刺激をお持ちでしょうか。刺激が欲しければ、自分も刺激を与えられる人間であることが必要でしょう。恋愛と同じではないでしょうか。好きで好きでたまらない。そんな感情だけで相手が振り向いてくれることを普通は期待しないものです。相手にも好かれるように努力することでしょう。好きだから好かれたい。同じように、刺激が欲しければ刺激を発さなければなりません。それがコミュニケーションではないかと。

刺激にしても恋愛感情にしても、どちらが先か後かではなく、刺激や感情が同波長の者同士がスーッと惹かれ合う。そんなものなのではないでしょうか。主張が最初にあるのではなく、すでに反論から全てが始まるように、アナタとワタシは出会った時にすでにそのような運命にあるのです。