言葉の魔術師ルター

翻訳という作業には困難が伴う。原典に忠実に直訳すると分かりづらいものとなり、分かりやすさを優先して意訳すると原典がもつ意味からかけ離れてしまう。古今東西で様々な翻訳作業が行われ、翻訳の果たしてきた役割は測り知れない。直訳であれ意訳であれ、異文化を伝達する作業には困難が伴うため、翻訳が誤解や摩擦を生じさせることもある。そのようなリスクを承知の上で翻訳を試みることには大きな意味があると思われる。翻訳によって社会に大きな影響を与えた事例は数多い。ここではルターによる『新約聖書』のドイツ語翻訳を取り上げ、その経緯と影響について論じてみたい。

九十五カ条の論題において、贖宥状を発行販売するカトリックを批判し、魂の救済とは無関係であると主張したルターは宗教改革の先駆者として知られている。しかしルターの最大の貢献は新約聖書のドイツ語翻訳であろう。宗教改革以前のドイツでは、カトリック修道士らがラテン語訳の聖書を朗読し、言葉を理解できない民衆はそれにただ呪文のごとく聞き入っていた。そんな状況に変化を加えたのがドイツ語翻訳である。ルター以前に聖書のドイツ語翻訳がなかったわけではなく、すでに十八種類の聖書翻訳が存在していた。しかしルターによる翻訳の特徴は、それが多くの人々に受容されたという点だ。学問的に一字一句を正確に訳すことをルターは重視しなかった。ルターが心掛けたのは、民衆のために開かれた聖書の翻訳であった。

そのためにルターが試みたのが民衆の日常言語による聖書翻訳であった。当時のドイツには宮廷ドイツ語と民衆ドイツ語が存在していた。格調高い宮廷ドイツ語のみでは民衆には伝わらない部分があることを懸念したルターは、どのように民衆ドイツ語を取り入れるかに力を注いだ。普通の日常を生きる町の人々が何をどのように考え、それをどのような言葉にして表現するかという点に着目したのだ。子供の頃から口にしていた民衆によるドイツ語によらなければ、聖書の考えが広く一般に伝わることはないと考えたからだ。

文字の読めない当時のドイツ民衆がキリスト教に触れる機会と言えば、修道士の話す味気ない外国の言葉をただ暗唱することであった。民衆の言葉による聖書翻訳ができたとはいえ、そして活版印刷技術のおかげで聖書が広まることになったとはいえ、文字の読めない民衆にはまだまだ手の届かない神の言葉であったかもしれない。しかし彼らには、文字を読める人に朗読してもらって聖書の言葉に触れるという手段があった。このとき彼ら民衆は初めて聖書の「ことば」に触れたのである。それまでの暗号のような理解不能な言葉ではなく、彼らが子供の頃から親しんだ、彼ら自身の言葉によって伝えられる神の言葉である。信仰する者にとって、自分の言葉で聖書に触れる感動は想像に難くない。ルターの聖書翻訳は日常の言葉による単なる福音の置き換えなどではなく、真の意味で、信仰する者への救済となったのだ。

音楽にも精通したルターは賛美歌を歌う習慣を根付かせ、歌によっても神の教えを広めることとなったが、それは民衆の言葉による聖書翻訳なくして実現できるものではなかっただろう。そのようなルターの聖書翻訳に対抗してカトリックも聖書翻訳を試みるが、ルター訳ほどの成果は得られず、ルター訳を用いていたこともあったという。その後五百年以上経った現在でも、ルター訳を超えるものはないと言われている。さらには、ルターの聖書翻訳で用いられたザクセン方言のドイツ語が軸となって、現在の標準ドイツ語へと発展していった。

ルターの聖書翻訳は当時のヨーロッパに思いもよらぬ影響を及ぼした。神によって永遠の救いに召されるという宗教的な意味しかもたなかった「ベルーフ」という言葉を、ルターは聖書翻訳の際に「世俗的職業労働」の意味に用いたのだ。職業労働自体はそれ以前から元々尊重されていたものだが、それが「ベルーフ」という言葉と結びついたことで、民衆のどんな職業も「神に召命された」ものとして考えられるようになった。プロテスタントの職業倫理観が労働を加速させて資本主義の発展へとつながったことをマックス・ウェーバーは指摘している。

このように、ルターの聖書翻訳はその後のヨーロッパ社会に、宗教の枠を越えた影響をもたらしたと言える。

 

参考文献

安藤英治編『ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1993年、有斐閣新書

金子晴勇『ルターを学ぶ人のために』2008年、世界思想社

徳善義和『マルティン・ルター/ことばに生きた改革者』2012年、岩波新書