持続可能な開発教育の持続可能性を考える

環境と開発の対立を解消するために提起された持続可能な開発という昨今の状況下において、中国の環境教育がそれとどのように向き合っているかを検討してみた。経済開発と譲歩しながら環境問題に取り組んで行くためには、国連や各国家のマクロ的な取り組みとは別に、あるいはそれとの連携のうえで、教育現場でのミクロ的な実践が不可欠である。中国は世界の動向を見ながらこの問題に対して倫理的な要素を融合した理念を提起して、それを環境教育の現場に導入することを進めてきた。先進国との認識の温度差や、遅れて開発に参加した結果として遅れて環境問題に対処するようになった背景もあって、全体としてはまだ課題の残る問題である。

日本の教科書との比較によって中国の教科書を分析することを試みたが、そこには、知識偏重を避けて道徳的要素を盛り込んだ内容が確認できた。しかし知識を軽視することも問題である。日本の教科書は科学的かつ客観的な記述がメインで知識偏重の印象があるが、知識もまた思考を組み立てるのに重要な武器となる。知識と実践をどのように環境問題対処に活用できるかが教育現場での課題なのかもしれない。環境問題を他人事ではなく自分たちの問題として認識させるような教材ではあるが、それが現実には活かされていないというのが中国の環境教育の現状ではないだろうか。

環境教育を検討するうえで、開発と環境の融合を生み出した持続可能な開発に関して、世界の潮流と理念がどのように中国の環境教育の理念に導入されているかを検証するだけでは不十分である。文献資料を読み込んでいるときに感じた環境教育理念に対する期待感ではあるが、アンケート等を通じた学生を含む市民との対話を参考にする限り、その期待が少しずつ崩壊していった事実は否めない。環境教育理念が実践に活かされていないという事実に加え、そもそも知識も十分に備わっていないという現実に直面して、環境教育以前に教育がどのように機能するかを検討するための切っ掛けになったことも認識しなければならないだろう。

しかし悲観的なものだけではない。中国は国家主導ではなくNGONPOが環境問題に積極的に向き合って、市民参加も活発になるような工夫が施されている。このような市民活動がますます本格的になる一方で、環境リテラシーには地域間及び世代間も含め様々な形態での格差が見られる。学校教育の中の格差だけではなく、情操教育も含め学校以前の教育の中にも格差があるからだろう。広大な国土を有するために環境問題の発現にも地域によって格差があるように、環境リテラシーにも格差があるようだ。環境教育を検討するためには、環境教育という名前を称する行政や教育現場だけの発信する側のみの分析では不十分である。発信された情報や教育を人々がどのように受け入れ、それを環境問題対処のために実践に移行できるかといった、受信する側の分析も必要になってくることが認識されよう。

環境教育は環境問題を大前提に成り立つが、環境問題における持続可能性はそのまま環境教育の持続可能性にも当てはまる。古今東西の英知を結集して成立させた理念ではあっても、それが受容される人たちの論理は言うまでもなく感情をも蔑ろにしては、結局は記問之学となってしまう。地域差やな習熟度などの問題を解消するために、環境教育をさらに徹底化することが解決策になるとも一概には言えないだろう。過度の義務化や規制は民主主義の根底を覆すことになる可能性があるし、学生たちの学ぶ選択肢を奪うことにもつながる。

しかしそれでもなお強いリーダーシップをもって環境教育に強い力を発揮することは必ずしも権力の強い濫用になるとは限らない。被災状況において行政が状況を甘く見て警報レベルを低く見積もって、問題が起きたときに始めてレベルを高くすることは、過剰な警告が社会を混乱にさせることを憂慮するからであろう。しかし例えばアメリカでは州知事が強い権限を持って高めに見積もる非常事態を宣言を出し、状況に応じて警告のレベルを下げていく。問題はその権限によって社会が混乱に陥る可能性と、その権限によって社会が救出される可能性とを天秤にかけて、比較衡量したうえでどちらが選択肢として賢いかであろう。環境問題が非常事態宣言に値するか否かが問われているのかもしれない。

環境問題がどこまで「問題」であるのかの認識次第で環境教育の在り方も変化するかもしれない。持続可能な開発が持続不可能な開発に帰するか否か次第で環境教育の持続可能性の道が拓かれている。その意味では、環境教育を検証するためには環境問題を取り巻く様々な議論や論点への着目が要請される。持続可能な開発の持続可能性に明るい兆候が見えて初めて環境教育の持続可能性が正当に評価されるようになるからだ。今後の環境教育の検証には、環境問題と教育問題の双方の深い理解と洞察が求められるのだろう。加えて、環境教育がどこに向かおうとしているのかを検討するうえで、他の国との比較検証も必要になってくるだろう。机上空論にならないためには、環境問題を巡る各国の沿革や蓄積された知だけではなく、もっとミクロな視点の検証が求められているのではないだろうか。これらの課題に真摯に向き合うことが今後のテーマとなるのかもしれない。