復讐するは我にあり

死刑制度の賛否をめぐっては様々な意見があるようです。現在世界で死刑制度を採用している国は意外と少なく50数カ国です。長年にわたって死刑執行していない国を含めるとヨーロッパの大多数が死刑制度廃止の方向です。アメリカの一部の州でも死刑制度廃止に向かっています。日本には死刑制度があります。日本では死刑制度を支持する方が多数派を占めているようです。残虐な殺人事件に対しては死刑もやむを得ないといった感情でしょうか。

そういった感情の究極形態が「復讐心」なのかもしれません。古代には「復讐」が制度として確立されていました。当時においては復讐することは「権利」ではなく「義務」であったという地域もあります。5世代にもわたって復讐する義務を課される地域もあったようです。およそ150年前に先祖様に起こった事件の復讐をする義務が課されるというのはなかなかのものです。予習復讐を忘れずにといったところでしょうか。

平成11年に発生した光市母子殺害事件の遺族である本村氏が「もし死刑にできないなら、今すぐ犯人を社会に戻してほしい。自分の手で殺します」と記者会見で語ったことはボクの中でも記憶に残ります。当時は司法の限界を叫ぶ声も多数ありました。遺族としてみれば、事件から何年経ようと死者はよみがえることはないから加害者への恨みは晴れないということでしょう。

意外と勘違いされているのですが、復讐制度にも規則があって、ハンムラビ法典中にある「目には目を、歯には歯を」のタリオの原則は実は野蛮な法原則なのではなく、加えられた害悪を超える報復を禁じて同害を報復するように制限する原理だったのです。必要以上の復讐は許されないということです。

そんな復讐制度ですが、現代社会において採用する国は、少なくとも先進国においては存在しません。いろいろと問題が多いからでしょう。たとえば、被害者の遺族が犯罪者を報復によって殺すとします。そうすると今度は犯罪者の遺族にも復讐感情が芽生えてしまいます。犯罪者の遺族に罪はありません。しかし犯罪者が殺されることによって遺族にも復讐心が生じてしまいます。それとも、復讐権なるものがあるとして、そんな復讐権者によって犯罪者が殺された場合、復讐権者に対する復讐権を犯罪者の遺族は持たないのでしょうか。この点、犯罪の被害者遺族等が犯した殺人は犯罪者自身の犯した犯罪に対する復讐であり、いわば犯罪者が一身専属的に引き受けなければならない復讐であるから、犯罪者の遺族等には復讐権は存在しないというのが定説となっているようです。そのように考えることによって、復讐の無限な連鎖を断ち切ることができると解釈されるからであります。

ところで、死刑執行ボタンを押す死刑執行官には相当な負担がかかっているようですが、死刑執行は明確な「人殺し」ですよね。死刑を執行するという行為そのものには明らかに殺人罪が適用されます。たんに違法性が阻却されて罪に問われないだけのことです。そのことを死刑反対論の中心論点に据える人もいます。復讐したい人がいるのに、あえて国家がパターナリズムに則って復讐の代理を行使しているという見方をした場合に、ちょっとした疑問が湧いてきました。それは「復讐」とは何ぞやということです。

われわれは、やられたらやり返す。取られたら取り返す。傷つけられたら傷つけ返す。それが復讐です。厳密に言うならば、殺人に対する復讐は殺された被害者にしか行使できないはずだと思います。国家が遺族に代わって代理で死刑執行するのであれば、それは死んだ被害者を本人として、国家が代理権を行使していることになります。復讐は被害者本人が加害者に向けたものであるべきではないでしょうか。であるならば、国家による死刑執行は復讐には該当しないことになる。そこで死刑の意義はやはり罰則的要素が強いものと解釈されるべきだと思います。

そもそも殺された被害者本人が復讐したいと願う意思確認をどのように明確にできるのでしょうか。それが1つ。もう1つは、被害者遺族の悲しみは「自分自身が殺された」悲しみではなく「愛する人を殺された」悲しみであります。殺されたのは被害者でありすでに死者となった本人であり、それに対してその本人が悲しむことが可能であるならば、殺された悲しみは被害者本人が受けるものです。それに対して被害者遺族が受けるのは「殺された」悲しみではなく、「愛する者を失った」悲しみです。ゆえに、理屈的には、被害者遺族が行使することができる復讐とは、加害者を殺すことではなく、加害者に対して遺族本人と同じ悲しみを共有させることではないでしょうか。痛みに対しては痛みをもって、悲しみに対しては悲しみをもって、それが復讐制度の正しい解釈なのではないかと考えてしまいます。遺族が感じる悲しみは、遺族が復讐によって加害者を殺したところで加害者には伝わらないのではないでしょうか。

真の復讐とは、愛する者が殺されたことから生じる悲しみを加害者にも同様に感じさせるために、加害者本人ではなく加害者の愛する者を殺すことをいうのではないでしょうか。それが正しい復讐の仕方ではないでしょうか。「オマエのためにオレが復讐してやる」というのは復讐ではなく「復讐代理」なのだと思います。遺族による復讐とは犯罪者を遺族にすることでしか成立しない。これがボクが考えた結論であります。

殺された被害者のために国家が死刑執行することをパターナリズムのお節介だと考えるのであれば、同様に、被害者のために遺族が復讐することは被害者にしてみれば大きなお世話になりはしないでしょうか。本当の意味での殺人の復讐は、被害者である死者にしかできないものではないのかなと。遺族ができる正しい復讐は、加害者を悲しませること。そしてその後にどんな連鎖が待っているかは想像に難くないと思います。したがって、復讐権を成立させることは論理的に不可能である、というのがボクの結論です。このような筋書は不毛な主張でしょうか。いいえ違います。死刑賛成派や復讐権賛成派の主張自体にそもそも無理があり不毛だからなのです。ではなぜボクはそんな不毛主張に一生懸命に反論しようとしているのでしょうか。それは、不毛な主張に対しては不毛な主張で返す、これが正しい「復讐」だからです。