憲法違反の憲法

憲法は英語で「constitution」と言います。「constitution」には他に「構成、構造、気質、体質」という意味があります。不思議ですよね。なぜ「構成」と「憲法」が同じ「constitution」なのか。これには理由があるんです。その前に、まず憲法とは何かについての理解を深めましょう。

他の法律と憲法の大きな違いは何でしょうか。法律とは、国家が「国民に対して」制定したものです。一方、憲法とは、「国家に対して」制定されたものです。国家が自由にどんな法律でも制定できてしまうと、国家の暴走を許してしまいます。それを阻止するために国家を縛るのが憲法なのです。国家に対して、われわれはこのような感じで国を運営していくので、きちんとそれを守ってくださいね、というのが憲法の趣旨です。言ってみれば、それは国家を形づくる基盤となるものなのです。国家の基盤となって国家を「構成」するものだから「constitution」なのです。国家の「構造」であり「気質」であり「体質」なのです。それが法律と憲法の違いです。だから実は「憲法」は「法律」ではないのです。

人を殺したら殺人罪に問われます。傷をつけたら傷害罪に問われます。それが刑法です。口約束で契約は成立します。所有権よりも実際にそこに住んでいる人の権利(占有権)が優先します。それが民法です。法律は全て、市民に向けたものです。それに対して例えば憲法表現の自由を保障しています。これは市民の表現の自由を不当に侵害してはいけませんと国家に対して述べているのです。他にも国家から国民を守る様々な自由と権利が明記されています。

でもなぜか例外として国民の三大義務なるものが憲法の中にあります。「教育の義務(26条)」&「勤労の義務(27条)」&「納税の義務(30条)」です。国家を縛るための憲法になぜ国民の義務が明記されているのか。それは、戦争に負けてボロボロになった国を立て直すために国民に活を入れるために明記されることになったからなのです。つまりこれら3つの条文は意味のないものなのです。繰り返します。憲法は国家の暴走を防ぐために国家を縛るためのものなのです。

そんな憲法が法律の1つだと勘違いされるきっかけを作ったのは、やはり「憲法」という誤訳でしょう。すでに述べたとおり、「constitution」は国家を構成する基盤です。その基盤に則って各種法律が制定されるのです。憲法は、それゆえ、法律ではありません。アメリカでは民法を「civil law」といいます。刑法を「criminal  law」といいます。でも憲法は「constitution」です。「law」ではありません。

ではなぜ日本では「憲法」というように「法」を付けてしまったのでしょうか。それは、聖徳太子の「十七条憲法」にさかのぼります。でも「十七条憲法」は現在の憲法とは正確が異なります。あれはただの道徳です。和を以て貴しとなす、的な。よく「十七条憲法」を世界初の憲法と言う人がいます。間違ってます。あれは現在の憲法の性格を有してはいません。現在の性格を有した憲法の最も古いものは英国のマグナカルタです。英国王の権限を縛ったものだからです。現在の憲法と同じ性格のものです。

ちなみにアメリカには各州ごとに憲法が存在します。州憲法といいます。州憲法は州政府の暴走を防ぐために州政府を縛るものです。州の住民に対するものではありません。日本国憲法もそのように理解しないと、たいへんなことになってしまいます。「名宛て人」という言い方をしますが、憲法とは国家に対して書かれたもの、国家を名宛て人としたものなのです。

自民党憲法改正に向けて頑張ってますが、ボクは憲法改正すること自体に異論はありません。問題はその中身です。安倍さんが考えたのでしょうか、改正憲法自民党案には「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」などと国民を名宛て人にしているものが多いです。専門家がみんな言ってます、安倍さんは憲法を全く理解していない、と。国旗や国歌や家族を尊重しなさいというのは、国民の「思想・信条の自由」を侵害するものとなります。つまり、憲法違反の憲法なのです。論語読みの論語知らずとか、ミイラ取りがミイラになるとか、ちょっとズレますが、そんな感じです。繰り返します、憲法は国家の暴走を防ぐために国家を縛るためのものなのです。

ところで、そんな問題アリの日本国憲法ですが、なぜか多くの憲法学者憲法改正に反対です。護憲派という人たちです。うがった見方をすればですけど、自分がこれまで一生懸命に勉強してきた憲法なるものが、ある日突然別のものに変わるとなれば、それまでの努力が水の泡となり、また一から学説作りに取り組まなければなりません。自分の業績を守るためには今の憲法を守り抜かなければならないということなのでしょうか.....。

憲法以上に守らなければならないものがあるとすれば、それは信念でしょう。そして信念を貫くための水先案内人となるのが理念なのでしょう。自分を自由に解き放つことは簡単です。でもそれを許したらどうなるでしょうか。それを律するために自分の中に設けたもの、言い換えれば、ボクの自由な暴走を防ぐためにボクの自由を縛るものがボクの信念でありボクの理念なのではないでしょうか。言ってみれば、ボクの信念やボクの理念はボクを構成するものであるがゆえにボクの「constitution」なのです。みなさんも是非ともご自分の「constitution」と向き合ってみてください。