保護に値するものとは

世の中には保護しなければならない人やものがたくさんあります。まずは子供ですね。そして大人も保護に値する場合があります。ボクの父は要介護5の認知症患者で、母は80歳、兄は知的障害者なんですが、彼らだけで生活するのは困難なのでボクも一緒に生活してますが、もし仮に彼らを放置したらボクは保護責任者遺棄罪に問われます。駐車場に止めた車の中に赤ん坊を残してパチンコしてる間に熱中症でその赤ん坊を死なせてしまうケースが頻繁にニュースに流れますが、あれです。

保護に値するのは人間のみならず様々なものにも及びます。絶滅危惧種の保護がありますね。シロナガスクジラが一番有名なところでしょうか。他にもいろいろな種が保護リストに挙がってます。ダーウィンの進化論によれば、適者生存と言って、環境に適したものが生存します。しかしこれは結果論でしか確認することができません。よって、生存したものが結果的に環境に適していたのだと言うこともでき、適者が先か生存が先かという循環論に陥ってしまう危険があります。

世界遺産も保護に値するものと考えられています。現時点で世界遺産に登録されている件数は1000を超えているようです。日本でも世界遺産登録に躍起になる人たちが多いです。どんどん増えて世界中が世界遺産になってしまいます。いっそのこと地球全体を世界遺産登録してしまえば世界中の人々がみんな喜ぶのではないでしょうか。

ユネスコ世界遺産登録を選定する基準として「顕著な普遍的価値」を挙げています。顕著な普遍的価値があれば世界遺産に登録されるのです。ではその「顕著な普遍的価値」とはどのように定義されているのでしょうか。「顕著」とはどの程度の顕著さを言うのか。「普遍的」とはどの程度の普遍性を言うのか。「価値」とは誰にとってのどの程度の価値を言うのか。みなさんも大変に興味があることでしょう。ユネスコはどのように定義しているのでしょうか。調べたんですけど、驚くことに.....ユネスコは何も定義してません。つまり判断基準の透明性ゼロということです。

そもそも建造物や文化を世界遺産として登録して保護したり、絶滅危惧種を保護する意味があるのでしょうか。実際、絶滅危惧種に関して言えば、それらを保護することでかえって生態系が崩れるという説もありますし、世界遺産に関して言えば、登録件数が多いので上限数を設定する動きも見られます。当初は登録件数は100だったそうです。それが100を楽に超えてしまったので1000に設定し直したそうです。いま1000以上あります。さらに登録抹消というのがあるのを意外とみなさんご存じでないようです。最近だとドイツのドレスデンにあるエルベ渓谷が登録抹消されました。条件が満たされなくなれば抹消されます。条件を満たし続けるには「お金」がかかります。そこまでして「なぜ?」と思います。

以前、大学院で、全く人気がなく学生が集まらない授業がありました。H教授はフランス社会学が専門で、毎年授業ではデュルケームのフランス語原典をわざわざ日本語訳書と読み比べながら授業を展開してました。あまりにも退屈な授業なので、とうとう受講希望者がゼロになってしまいました。直弟子のE君はなんとか学生を集めなければと必死に大学院生に連絡をとっていました。ボクにも連絡がありました。だからわざわざ丁寧に「真実」を伝えてあげました。「需要と魅力がないということを理解された方がよろしいんじゃないでしょうか」と。この事例は、過去の実績と引き際を美しく演出するために講義を履修可能科目として「保護」することを意味します。

世の中には強引に需要を生み出そうとする不健全な傾向があります。連続試合出場記録がかかっている選手は、たとえ調子が悪くても記録がかかっているというただそれだけの理由で起用されます。投手の引退試合で「敬意」を表して故意に空振りする打者もいます。現役最後の投球で三振をとったという記憶と記録を残すのです。見せ場という需要をわざわざ生み出すのです。こういうのを何というかご存じですか。覚えておいてください、「子供だまし」というのです。功労者を「保護」することには、どうやら人間は肯定的なようです。

逆に、世の中には保護を否定的にとらえる場合もあります。過保護は代表的事例です。でもここでは保護することそれ自体に否定的なものを取り上げてみましょう。ちょっと視点をずらして「保護」を「保存」と読み替えてみると、一気にその印象が変わります。「こんまり」こと近藤麻理恵さんは片付けのプロですが、彼女によれば「保存」に値するものには「トキメキ」があります。トキメキを感じないものは処分する。しかし世の中には、全くトキメキもしないのに家にモノをため込むことが大好きな人がいます。ゴミ屋敷の御主人です。「データ保存」という考え方は、コンピュータ上には保存の必要のないものがあるということを意味します。こういうケースにおいて人間は「保存」を手放しで喜んでいられないようです。

「保護」を「保存」に読み替えて世の中の「保護」を再び見回してみましょう。もしユネスコが過剰に世界に存在する有形無形の「財産」を遺産として相続、いや登録することになったら、そして絶滅危惧種を保護することになったら、きっと地球は「1つ屋根の下のゴミ屋敷」となり、われわれはみなゴミ屋敷の御主人になることでしょう。保護することを無批判に受け入れる準備、みなさんはできているのでしょうか。