イエスの奇跡

ボクは聖書を読んだことがあります。信者かって? いや違います。英語の勉強のために高校の時に読みました。いろんなバージョンがあるのですが、『Good News Bible』という標準的英語で書かれたバージョンで、一番読みやすかったので英語の勉強になりました。読み終わった後の感想としては、『聖書』は経典という以上に文学作品という印象が強くなりました。いまでもボクの中では『聖書』は文学です。

さて、聖書には教訓的な話もさることながら奇跡にまつわる話も幾つかあります。現代人にしてみれば信じ難い内容ではありますが、ここで大切なのはその話が真実であるか否かではなく、何を伝えようとしているのかにあります。奇跡を意味するギリシア語の言葉としての「セーメイオン」には「しるし」という意味があります。それは「神の力、あるいは神の意志のあらわれ」とみなされます。つまり奇跡とは神が我々に残したひとつの証しであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ヨハネによる福音書」にイエスが5000人に食べ物を与えたという奇跡の話があります。そこに用意されたのは5つのパンと2匹の魚です。しかし残ったパンの屑を集めるとそれが12の籠でいっぱいになりました。これを見た人々はイエスを慕いましたが、それを知ったイエスは山に退いてしまうのです。ここで奇跡を連発すれば布教にとってはまたのないチャンスなのに、イエスは敢えてそれをしないのです。

山に退いたイエスを見つけた人々は再三イエスに奇跡を請うのですが、イエスの答えは次のようなものでした。モーセは確かに食べ物を与えたが、食べた者は皆死んでしまった。しかし「私は天から降って来た生きたパンである」と。さらには「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」であると続けるのです。これは今でいうところの正餐式におけるパンとぶどう酒を意味します。

そういえば、30年前にアフリカの飢餓支援のために作られてヒットした『We Are The World』という曲の中にこんな歌詞がありました。

As God has shown us by turning stones to bread, so we all must lend a helping hand.....
神が石をパンに変えることで示してくれたように僕らも救いの手を差し伸べる時なんだ.....

作詞はマイケル・ジャクソンでしたが、神の解釈が間違ってます。神は石をパンに変えることをしなかったのですから。

本題に戻りましょう。わたしたちは、イエスが敢えて奇跡を起こさなかったことに奇跡と魔術の違いを見出すことができます。魔術とは「超自然的な力を借りて、いろいろなものを自分の思い通りにしようとする試み」ですが、奇跡は、神が人間の強制を受けて示すようなものではありません。そもそも人間および自分自身のために奇跡が施されるならば、それは人間が神を思い通りに操作できることを意味します。神がその意志を示すものが奇跡の目的であり、奇跡自体はそのための手段でしかない。それゆえに奇跡は神の意志の「しるし」なのです。そして神が願えば奇跡は起こるが、神の願いは必ずしも人々の願いと一致するわけではない。

わたしたちは信仰と祈りを一連のものととらえ、信仰には祈りが不可欠であると考えます。おそらく新興のものも含むどの宗教にも祈りの実践が奨励されているのでしょう。祈ることでそれぞれの神がそれに報いるのだと信じて止みません。そうであるからこそスポーツ選手は十字を切ることによって、活躍の前に願い、活躍の後に感謝するのでしょう。しかしそのような考えの前提にあるのは、どうやら人間と神とが等価の関係であるという傲慢な考えなのでしょう。あるいはギブアンドテイクという発想が資本主義との相性との相乗効果によって、ますます人々の勘違いに拍車をかけているのかもしれません。少し考えてみれば当たり前なことですが、祈って叶うほど神はわたしたちにとって決して御しやすい存在ではない。それでも人々は願い、慕い、祈ることを辞めないのはなぜなのでしょうか。神の意志を制御できるとは本気で思っていることはないにしても、それは単なる慣習以上の何かであるには違いないです。そのような観点から、聖書というものはおそらく信仰の対象そのものなのではなく、信仰へ導くための知恵の宝庫であり、生きるための礎なのだということが再確認されるのでしょう。