「駅弁する」ということ

最近は列車内で駅弁を食べる光景を見ることが少なくなりましたね。駅弁の絶滅を危惧する声もあろうかと思います。こんなことを書くと、列車内で食べる光景が少なくなっただけで、駅弁そのものは健在だとの反論もあろうかと思います。しかしそのような主張はいかがなものでしょうか。駅弁の絶滅を危惧する声の主らが述べているのは駅弁そのものの絶滅ではなく、駅弁が本来有している状況が見られなくなったことではないのでしょうか。そんな彼らの主張を代弁すべく以下に「駅弁すること」の解釈について述べさせていただきます。

駅弁には情緒があります。であるからにして「駅弁」というのは単に「駅構内で販売されているお弁当」という定義以上のものがあるというのがボクの考えであります。そもそも「駅」というのは鉄道で移動する際の一時的停泊地であるはずです。ゆえに、鉄道移動中に食べるのが駅弁であって、近隣住民がちょっと駅まで買い物に行って「今日の晩ご飯」の感覚で食べるのは「駅弁ではない」というのが鉄道オタクに負けないボクの持論です。つまり「駅弁」とは「鉄道駅構内において販売される、物理的な容器に詰められた食べ物」を単に意味するのみならず、それを「移動中の鉄道客車内において外の風景を見ながら味わう行為」を含めた総称としてボクはとらえています。

もし仮に「駅弁」の定義を「駅構内において販売されるもの」と解釈するならば、JRキヨスクをはじめとして昨今の駅構内においてその進出が著しい全てのキオスク及び駅構内コンビニにおいて販売されている全ての弁当が「駅弁」ということになってしまいます。駅構内セブンイレブンで販売されている「炭火焼き牛カルビ弁当」や「チーズと大葉のミルフィーユかつ弁当」を「駅弁」と呼ぶことがあるでしょうか。あるわけないです。それらは「駅弁」ではありません。単に「駅構内において販売されるもの」を駅弁と呼ぶのは間違いであります。当該鉄道駅と何らかの意味で結びつけられる特定の弁当のみが「駅弁」の称号を名乗るに相応しいとボクは考えています。

以上をまとめると「駅弁」とは、

①鉄道駅構内において販売される、物理的な容器に詰められた食べ物

②当該鉄道駅と何らかの意味で結びつけられる特定の弁当

③移動中の鉄道客車内において外の風景を見ながら当該弁当を味わう行為

の全ての基準を満たすものを指します。

それゆえに、デパ地下食品売場において商業的拡大販売戦略の一環として販売される駅弁はここで言うところの「駅弁」ではありませんし、それを自宅に持ち帰って家族団欒でその駅弁を食したところで当該行為は「駅弁」とは認められませんし、その駅弁をもって何をイメージして当該駅弁に意味を付与したところでそのイメージは単なる幻想であって決して「駅弁」ではないことは言うまでもありません。

名物駅弁を売りにする駅周辺都市においては、当該駅弁を自慢するあまり「駅弁を支えているのは旅行者ではなく地元民である」という幻想を抱かれる人も多いようですが、以上に述べたことから明らかなように、「駅弁を支えているのは旅行者ではなく地元民である」という主張は間違っています。駅弁を支えているのは移動者であって地元民ではありません。地元民が駅弁を堪能することができるのは、彼らが移動中の鉄道客車内において外の風景を見ながら当該駅弁を味わう行為に心を奪われている場合のみであります。

「駅弁」とは、単に駅で売られる物理的な弁当のみを意味するのではなく、当該駅弁を客車内において食べるという行為をも含めたものなのであります。客車内において様々な思いを馳ながら食べる移動者のために駅弁を作る人がいて、それを売る人がいるからこそ成立するのが駅弁なのであります。ゆえに「駅弁」とは、その流れの1つ1つに携わる多くの人々とのつながりの中において成立するものなのであります。人が他者と向き合うことなしに駅弁は成立しないのであります。

「駅弁絶滅」を危惧する声の主らの主張は、以上の主張からも明らかなように、「駅弁」という総称から「移動中の鉄道客車内において外の風景を見ながら当該弁当を味わう行為」が抜け落ちてしまったことを懸念してのことだとボクはかたく信じております。「駅弁」とは「駅弁する」ということも含意する、ひとつのコミュニケーションなのであります。