健康は目的か手段か

最近の若い人たちの動向を見ているとやたらと健康志向が強いことに気づかされます。若者と言えばかつてはファッションばかり追いかけて健康には疎いのかなという時代もあったと思います。でも今は違いますね。ファッションを追求しつつ健康にも気を使う、まさに「ファッションヘルス」の時代到来といったところでしょうか。ところで健康の概念がどうやって日本に定着したのかご存じでしょうか。意外と知られていないこと多いと思います。

健康という言葉は、明治時代に政府が西洋医学の概念を持ち込んだことに始まります。明治政府は西洋医学の衛生や健康という概念を利用して「国民を管理」しようと考えていたようです。そのため西洋医学の医師を国家資格が必要な専門職にしました。当時盛んだった漢方医鍼灸師に加えて宗教家など民間医療従事者は排除されました。こうやって西洋医学を通して、強い兵士や良質な労働力の生産を目指しました。国民はお国のためにも健康でなければならないと考えられるようになると、当然のことではありますが、「優生学」も国家による優生政策に資することになったのです。

優生学」というのは、人間の遺伝的要因を不自然に操作することによって人間の才能の劣化を防いだり改良して良質の人間を作りましょう、という学問のことです。最近明るみになった強制的な不妊手術が分かりやすいと思います。特殊な病の患者を隔離施設に収容するというのも優生学の発想によります。先日ここでも取り上げたデザイナーベイビーなんかもそうですよね。なぜiPS細胞が良くてデザイナーベイビーがダメなのかという話の中でも触れましたが、iPS細胞だって優生学の実践としてとらえることもできるとボクは思ってます。

話を戻すと、健康が国家プロジェクトとして動き出した当初は「健康」を通して国民は国家によって管理されていたんです。法制度もそれに合わせて変わりました。西洋医学も制度化されて国民はしっかりと国家によって管理されるようになりました。

しかし、そのような傾向は昔のことに限った話ではありません。比較的近代化が進んだ戦後になっても、国家は健康政策で国民を管理し続けました。最初は結核などの感染症の排除と予防という政策を進め、それがひと段落すると今度は「成人病」を減らす政策を進め始めたんです。「成人病」というのは、本来の医学にはない概念だったのですが、言うことを聞いていれば国の補助が得られるから、医学会は予算を獲得するためだけに成人病研究を進めたんです。成人病がひと段落すると、今度は「生活習慣病」という概念が発明されて、やはり予算がつけられました。国が予算によって医学を管理し、医学もそれにしたがうことで、現在でも国家は医学を通して国民生活を管理しているというのが真実です。「成人病」も「生活習慣病」もともに欧米の医学には存在しない概念なんです。そんな病気ありませんから。自由国家観からすると、余計なお世話なんです。そういうのを「パターナリズム」といいます。Wikipediaによるとパターナリズムとは「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること」をいいます。

以前からここでも取り上げてきた自己責任論。いまや成人病や生活習慣病は自己管理ができていないことの証拠とみなされて信用問題にまで発展することがあります。でもホントは自己責任を強いられているのです。どう見ても痩せているようにしか見えない女性がさらに痩せたがるのも、体型を自分で管理できると考えさせられているからです。かわいい服を着るために無理なダイエットをする。美容整形も自分の身体は自分で管理できるという強迫観念にもとづいてます。

若い女の子のダイエットを笑う大人がいます。彼らはホントに笑えるのでしょうか。健康の基準が数値化されることによって、だれでも自分が理想とする数値を目指そうとしています。数値の上下に自分の感情が揺さぶられます。メディアを通じた情報も多く入ります。ここまでくるともう自己管理などではなく強迫観念でしょう。さらに、健康にお金をかけられる者とかけられない者との間に格差が生まれ、新たな問題となっていくことでしょう。

かつてタモリが「健康のためなら死ねる」と言いました。手段と目的が逆転してます。もちろんタモリはそのことを皮肉って言ったのですが、こういった手段の目的化を本末転倒とか主客転倒といいます。何かそのもの自体あるいはそのこと自体が目的になるのが良い場合もあります。芸術がそうです。美は本来はそれ自体が目的たり得るものです。もしかすると女性が美を追究するのも、本末転倒なのではなく、美の追究それ自体が目的であるゆえに、そのための健康はひょっとしたら手段になるのかもしれませんね。少なくとも世の女性にはそれくらいの詭弁で健康神話に否定的な世論に対して反論していただきたいものです。