持続可能な寿司

その昔、開発が活発になったことで環境論者から激しい批判が起こりました。「環境を守るために開発をやめろ!」というやつです。でも「環境を守れ」と言うのは、開発を積極的に進めてきて環境がヤバいことになっていることに気づいた先進国側の人々なんです。これから開発して先進国の仲間入りしようという途上国としては「何を今さら」という感じで、環境を守るために開発をやめることに反対でした。つまり「開発」と「環境」は対立する概念だったんです。

そんな状態がず~と続いていたのですが、1980年代後半に国連会議で「持続可能な開発」という概念が提唱されたのです。それで事態が一気に変わりました。そこで提唱された「持続可能な開発」の定義は「現在の世代の要求を満たしつつ、将来の世代の要求も満たす開発」というものでした。現在の開発も可能にしながら将来の環境も可能にする。将来の環境に悪影響を与えないような現在の開発ということで「持続可能な開発」と言われ始めたのです。まあ言ってみれば、かつては対立していた「環境」と「開発」が、双方可能なものとして作られた解決案というか折衷案だったのです。

持続可能な開発が生まれたことによって、それまで環境問題が地球の一部の問題であったものが、地球全体の問題へと変わっていったのです。開発には環境問題が付随するからですね。持続可能な開発は南北問題、貧困問題、人権問題といった様々な問題とも接することで地球規模の問題に発展しました。

しかしこの持続可能な開発には多くの批判もあるんです。「環境」と「開発」が本当に共存できるものなのかどうかと。環境保護に傾倒していた頃の議論と持続可能な開発においてなされる議論にどのような違いがあるのか。「持続可能」という魔法のような言葉によって開発が見過ごされる事態になっているのではないかと。まったくその通りで、実際、以前は開発問題に積極的だった人類学とか社会学が、「持続可能な開発」という概念が登場してからはピタッと研究活動がおとなしくなってしまったのです。バカでしょ、研究者って。そんなもんですよ。言ってみれば「持続可能」というのは最終兵器で、みんなを黙らせる効果があるんですよ。

ところで「持続可能な」という言葉、英語では「サステナブル(sustainable)」と言います。「持続可能性」のことを「サステナビリティ(sustainability)」と言います。わざわざカタカナで書いたのは、もうすでに日本語の中に市民権を得てるからなんです。本来は「環境」と「開発」のように、対立して相容れないものを何とか成立させるという意味合いで用いられていたのが「持続可能性」や「サステナビリティ」だったのです。

だからこれらの用語を使用する際には対立概念であることが含意されているべきなのです。それが日本では誰も彼もがみんな「持続可能な」と言うものだから、おかしくてね。「持続可能な都市」とか「持続可能な医療」とか「持続可能な社会構築」とか、最後には「持続可能な寿司」というの登場しました。環境を破壊しない程度の捕獲方法によって得られたネタだけを使用した寿司だそうで、サンフランシスコにそれを売りにした寿司屋があります。環境を破壊しないというのをどうやって証明するのでしょうか。誰かが言い出したらみんなで言うようになってしまった、そんな言葉なんですよね、「持続可能性」というのは。まあおそらく「持続可能な医療」にしても「持続可能な都市」にしても環境保護とどう向き合っていくかというところに照準合わせてるのでしょうが、言ってることが稚拙ですね。