儀礼的無関心

ゴフマンの「儀礼的無関心」についてはその訳語に問題あると考える研究者が多いです。「儀礼的無関心」ではなく「市民的無関心」とか「世間的無関心」という訳を提唱している方々もいるようですが、ちょっと皆さん勘違いなさっているのではないかというのがボクの印象です。原典では「儀礼的無関心」が「civil inattention」になってます。「civil」とあることから「市民的」という訳語を提唱するのでしょう。そこからこの「儀礼的無関心」を近代的性質と読み込んでいるのでしょうか。ボクはちょっと違うと思ってます。ボクはcivil inattentionの訳は「礼儀的無関心」で良いと考えています。「儀礼」を「礼儀」に書き換えたものです。civilに「近代」を読み取ることには無理があるというのがボクの意見です。その理由は以下の2つによって説明されます。

まず第1に、用語の統一性に関してです。確かにゴフマンは「近代」の対人儀礼に限定して分析していると言われてます。それは理解しています。表局域と裏局域という棲み分けを初めとする様々なパフォーマンスが近代以前には見受けられないという指摘が多くの論者によってなされていることも理解しています。しかし、もし「civil inattention」に「近代的」含意を読み取らせる必要があるのであれば、「表局域/裏局域」をはじめ他の多くのゴフマン用語にも同様に「近代的」含意を読み取らせる必要性がなければ解釈における一貫性がないのではないでしょうか。ところが、他の用語に関しては「近代的」含意を感じさせるものは特に見当たりません。「civil inattention」のみに「近代」という含意を押し付ける根拠は何か、その説得力が欠けていると思います。

そして第2に、語彙の意味に関してです。civilはラテン語に派生しています。確かに元々は「市民」というのが語源ですね。古代ローマのキヴィタスというのがまさにそれです。古代ギリシャでは皆さんお馴染みのポリスです。「市民」というのは古代ローマ時代からいました。これが脚光を浴びたのは「中世都市」が出現して以降でしょう。それゆえ「市民」という概念から近代のみを引き出すのには所詮無理があります。

確かにcivilは元々は「市民」のみを意味してましたが、そんな市民として身につけるべき「市民らしさ」をも意味するようになったのも事実です。ですからcivilには「市民」の他に「礼儀正しい」すなわちpoliteと同じ意味が含まれています。日常的な使用法においては、実は後者の「礼儀正しい」の方が頻度が高いですし、名詞のcivilityには「市民性」ではなく「礼儀、マナー、節度」といった意味しかありません。

「無関心(inattention)」というのは通常は無礼なイメージを想起させるものです。そんな無関心が礼儀に則っているという一見した矛盾を強調するために「礼儀的(civil)」をもって形容しているのが読む側にユーモアを提供しているというのがボクの解釈です。

加えて、「儀礼的無関心」は礼儀作法やマナーについての文脈において言及されています。おそらく訳者は「パフォーマンス」や「ドラマトゥルギー」という概念に引っ張られすぎ、「礼儀作法」に合わせてあえて「礼儀」を引っ繰り返した「儀礼」という訳を当てたのではないでしょうか。「礼儀」と「儀礼」で語呂がいいからではないでしょうか。しかし「儀礼的」では「無関心」との対応が語義的にハモっていないわけですから、そこは「マナー」あるいは「礼儀」にすれば良かったのではないかというのがボクの考えです。

したがって、ゴフマンの作品から近代を読み取ることと、civilに近代を読み取ることは別問題だとボクは考えています。

以上が「礼儀的無関心」あるいは「礼に適った無関心」や「礼を尽くした無関心」や「礼儀正しい無関心」といった訳語をボクが提唱する理由です。