セレンディピティ

キオ・スタークという人類学者(かな?)の『知らない人に出会う』という本があります。ちょっと一部を抜粋しますね。

公共の場で見知らぬ人同士が一定の距離まで近づくと、2人は互いをちらりと見て、さらに近くまで来ると目をそらして相手をやり過ごす。このちょっとした戦略によって、2つのことが可能になる。まず、相手に目をやることで、空間を共有している相手をお互いに認識しているのがわかる。次に、目をそらすことで、こちらには干渉する意図がなく、危害を加えるつもりもないし、危害を加えられるとも思っていないことを示せる。これで、相手を警戒する必要も、相手から襲撃される怖れもなくなる。互いの無関心はあくまでも表面的なものなのだ。

スターク氏によれば、われわれは常に知らないもの同士と隣り合わせの世界に住んでいて、そこでの不安や衝突を防ぐために「儀礼的無関心」を装っています。「儀礼的無関心」というのは社会学者ゴフマンの概念です。通常は人に関心を向けることが礼儀であり、無関心を装うことは無礼であると考えられています。でも、無関心を装うことが無礼ではなく、むしろ礼儀正しい状況というものがある。上述したすれ違いの際のマナーがまさにそれです。翻訳した人は「儀礼的無関心」と訳したけど、ボクは「礼儀的無関心」の方が正しいと思います。それはさておき、通常は知らない人に対しては恐怖を覚えるのが人間なのだそうです。

そのことを了解したうえで、スターク氏は敢えて知らない人に働きかけることを提唱しています。それは、無関心を装うことによって人と経験を共有する多くの機会を失うのをもったいないと彼女が感じているからです。確かに人に働きかけることで自分の生き方を豊かにするという読後感を得ます。ただ、これを言い換えると、人に働きかけることはとても難しいことであり、われわれはいつも人との接触にストレスを感じながら生活しているということを感じます。人にアンケートを取ったり、インタビューをしたり、その行動を観察したりするのは、実は大変なエネルギーと勇気を必要とすることなのかもしれません。それでも敢えて人に働きかける意味があるとしたら、それは、そこから何かが得られるからなのでしょう。研究者がフィールドワークを行うのも、そんなメリットがあるからなのかもしれません。

そもそもフィールドワークには直接的にデータを回収する利点を追求する以上に、そこから何かを問題提起して解決策を講じるためのインスピレーションが得られるという魅力があります。出会いによって人と何かを共有することで経験できるものから生まれるアイデアを大切にしたいものですね。そこには居心地の悪さもあるでしょう。しかし敢えてそこに飛び込んでいくことがスターク氏や多くのフィールドワーカーが唱える観察者としての態度です。異質なものと隣り合わせになることで、自分がこれまで当たり前だと思って意識してこなかったことに光を当てることができるでしょう。問題提起とは、そのような態度から生まれるものではないでしょうか。主観が介入することをおそれるのではなく、あえて自らも体感しながらともに経験を共有することで、現場の声のどの部分が抽出されるべきかを見きわめることが可能となるでしょう。それがフィールドでの醍醐味なのではないでしょうか。

そして、ここからが本題なのですが、そのフィールドの魅力を語るうえで欠かせないのが「セレンディピティ」なのではないかなとずっと感じてます。セレンディピティとは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することです。本屋で探していた本の隣にたまたまあった本が自分の生涯にとって重要な本となることがありますよね。本来の目的でないことから重要な何かが発見されるということは考えられます。思いがけない出会いに遭遇したことが成功へつながることがよくあるみたいですよ。

セレンディピティの代表例としては付箋のポストイットが挙げられます。もともと粘着力のある接着剤を開発していたところ、失敗して中途半端に剥がれてしまう粘着性の弱い製品ができあがってしまったらしいです。その失敗作を本のしおりに使用しているうちにポストイット誕生に至ったということです。電子レンジもマジックテープもダイナマイトもX線も、みんな偶然に発見されたものらしいです。これがセレンディピティです。一見関係なさそうなものにもアンテナを張り巡らし、これだという契機を逃さないスキルが求められるのかもしれませんね。知というのは、そのような大胆な謙虚さの中から生まれるものではないでしょうか。フィールドにそのような思いを託しながら、みなさんにも積極的に見知らぬものに働きかけていってもらいたいなぁと思います。