過大評価=過小評価

日本は「恥」の文化だと言われます。それゆえに「罪」の文化である西洋およびキリスト教を理解するのに苦しみます。そして「罪」それ自体に対する解釈もキリスト教とは異なるようです。日本人にとって恥とは他者であるところの「人間」に対して想定されるものであり、同じような解釈が罪に関しても適用されます。すなわち、それは人間の人間に対する罪のことであり、「法律を犯すという意味での犯罪(crime)」と「罪責意識や罪悪感を抱くような犯罪(guilt)」を意味します。

一方、キリスト教徒にとっての罪とは、「人間」に対して向けられる罪の他に、「神」に対して抱かれる罪悪感をも意味し、その発端は創世記のアダムとイヴによる不従順に起因する堕罪にまでさかのぼります。これが彼らにとっての原罪(大文字のSin)であり、全ての人間が生得的に背負っていくものとされています。

つまり日本人にとっての罪は「人間」対「人間」の関係から生じるものであり、キリスト教徒にとっての罪は「人間」対「神」の関係に方向づけられるものと解釈できます。そうであるがゆえに、前者の罪は「人間が処理できてしまうもの」であり、後者の罪は「人間が処理できないもの」として対置されます。

次に、キリスト教にとっての罪の意味を広くとらえる試みとしてそれを「神から切り離されていること」と定義して、「自分を過大評価」することと「自分を過小評価すること」に分けてみましょう。禁断の木の実を食べて以来、人間は「神のように善悪を知る」こととなり、神の助け無しで生きられるくらいの知識を身につけてしまった。その結果、人間は傲慢になり、罪を罪と感じられない状態に陥ってしまいました。これが自己の「過大評価」です。一方で、人間は自己のおかれた状況に満足できず、自己嫌悪や自己否定に陥り、それが鬱病や自殺といった社会現象にまで発展してしまいました。しかし創世記の「神はこれを見てよしとされた」状態を否定するという意味において、このような自己の「過小評価」は神への背信と解釈されます。

つまり、自己の「過大評価」と「過小評価」は、一見全く方向性の異なるものとして対立してとらえられるけれど、実は、神から自己を切り離すという意味においては両者ともに「罪」だと考えられます。言い換えれば、「罪であることを罪と感じない」で、「罪でないことを罪と感じる」、あるいは、「神のNOにYESと言う」もしくは「神のYESにNOと言う」ことによって、それらは結果的に神から切り離されている状態を意味します。

日本人によくありがちな「いえいえ私なんてたいしたことありません」という遠慮深さは、上述した視点からしたら、神が与えてくれた私自身を「たいしたことありません」と否定するわけだから、それは神を否定するのと同様のことになるでしょう。遠慮知らずの西洋キリスト教世界を「傲慢」という一言で切り捨てる前に、こういったキリスト教的背景を考えておかないと、先には進めないんでしょうね。図々しそうに見える西洋人が目の前にいるとき、彼らはわれわれの目の前にいる以前に、神に向き合っているのかもしれません。

西洋人はみんなそんな感覚なのかと違和感をもたれているかもしれませんね。ボクはアメリカにいた頃、よく日曜礼拝に行ってました。結構いろいろな種類のチャーチやチャペルに足を運びました。南米でもカトリック教会に行きました。結構教会の雰囲気が好きなんです。信者ではありませんが。過大評価と過小評価の話、知らない西洋人が多いですね。でも日曜礼拝に行ってるキリスト教徒はみんな知ってます。あくまでボクの主観ですが、熱心な信者は日本には来ません。向こうに行けば会えます。日本に来るガイジンに敬虔な信者はあまりいません。来るのを迎え入れることにも限界があり、そこはやはり自分から乗り込んで行かないとどうしようもないのだと思います、本物に触れるには.....。