自己決定権は権利か義務か

先日、最寄り駅の階段から転げ落ちた婆さんを救助したときのことですが、婆さんは頭から血をタラタラと流しながらも「大丈夫です大丈夫です」と訴えていました。周囲に人が大勢集まったからでしょうか、人様に迷惑を掛けてはいけないと感じたのでしょう。立ち上がろうとしました。「救急車呼びますからジッとしててくださいね」と語りかけたところ、「救急車は呼ばなくていいです大丈夫ですから」と70代後半の婆さんは遠慮気味にボクに何かを訴えていました。出血してなければ考えましたが、いや出血してなくてもボクは救急車を呼んでいたでしょう。以前、川崎市内の銭湯の前で自転車に乗った婆さんが転んで頭を打ったのを見かけた時も、出血はなかったけど救急車を呼びました。その時もやはり婆さんは「救急車は呼ばなくていいです大丈夫ですから」と言ってました。今回の婆さんは出血タラタラなわけですから、ボクは婆さんの訴えを無視して119に電話しました。

救急オペレーターに場所と症状を伝えている最中も婆さんは「救急車はいいですから」とボクに訴えていました。周囲の何人かが「病院行った方がいいですよ」と婆さんを落ち着かせていました。すると電話越しのオペレーターがボクに「ご本人様は救急車の利用を望まれていますか」と尋ねてきました。川崎市内の銭湯の前で婆さんを救助したときには救急オペレーターからはそんなことは聞かれなかったのに。「はっ?」と聞き返すとオペレーターが「ご本人様の承諾がなければ病院に移送することができないんです」と。婆さんの「救急車はいいですから」と叫ぶ声がオペレーターに聞こえてはマズいので、ボクは婆さんの元から少し離れて「はい、承諾を得てます」とウソをつきました。

血をタラタラ流した婆さんにも自己決定権がある。病院に行くのも救急車を手配するのもすべて自己決定権に基づかなければならない。そんな、ある意味では無責任とも思われる指針が日本臨床救急医学会によって公表されました。おもに心肺蘇生中止に関しての指針ですが、それによると「①救急隊員は心肺停止した患者に救命処置を開始し、②その処置を行っている間に、かかりつけ医が書いた指示書や本人が作成した文書など、本人の意思がわかる書面が示された場合、③かかりつけ医に連絡し、もし連絡がつかなければ、救急隊と連絡を取っている別の医師に連絡して、④医師の指示のもとに救命処置を中止する」となってます。おそらくこの指針に伴って様々な「改革」が行われ、その一環として「ご本人様の承諾無しに病院搬送してはいけない」ということになったのだと思います。

救急救命で病院を訪れたことのある方なら経験したことがあるでしょうけど、手術にまで至らずとも、内視鏡検査や、そもそも治療自体にいちいち家族の「署名」が求められます。ボクが懸念しているのは、こういった動向によって人間たる主治医を含め医療に携わる人々の感覚が最近少しずつ麻痺していることなのです。

3年前に父が誤嚥性肺炎で入院したときのことですが、父の病室で主治医を交え母とボクが今後の治療について話し合いをしていたときに、主治医が本人である父を目の前にして「延命治療というのはお考えになってますか」と丁寧に言葉を選んで尋ねてきました。ボクは驚いて言葉が出ませんでした。母はその言葉に涙目になってました。父は目覚めているようでした。認知症だからどこまで事態を把握しているのかは分かりません。もしかしたら主治医の言うことを全く理解していないのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

でもボクは、父が理解しているか否かは全く関係ないと判断し、主治医に対して「オマエさあ、デリカシーの無いこと言ってんじゃねえよ」と叱りつけました。病室だったので他の患者さんもですが、フロア中に聞こえたみたいで、男性ナースが数人やってきました。「オマエ呼ばわりはないんじゃないですか」と言ってきたものだから思わず「ボクはですねえ、人種、信条、性別、社会的身分に関係なく人には敬意をもって接してます。でもオマエは尊厳を示すに値しないと判断したからオマエと言っているのですよ、分かりましたか」と主張しました。主治医は正しい措置に則ったインフォームドコンセントであることを主張したものだから、さらに「機械的にインフォームすればいいって問題じゃない。医療サービスって言葉があるでしょ」と主張したら「医者はサービス業じゃないですよ」と勝ち誇ったドヤ顔決めてきたから、さらにカチンときて「サービス的側面があることぐらい分かるでしょ。実験室にこもって研究してるわけじゃないんだから。医学と医療の区別も分からないんですか。あなた医学者じゃないんですよ、医療従事者ですよ」と言ってたら、なんとか課長とかいう事務方が登場してゲームセット。なんとか課長が丁寧に謝るものだから仕方なく収まったって感じです。

自己決定権というのは本当は自分で決定する権利であるはずだけれども、なんだかお上から授けられた義務のような感覚がボクの中から拭い去ることができません。自己決定権を金科玉条のごとく切り札に持つ医療現場の人たちにボクはどうやって立ち向かっていけばいいのだろうか。自分の経験から辿り着いた答えは、ボクはボクの自己決定権を通せば良いということ。救急車に搬送してもらうためには本人の自己決定権が尊重されるべきだという主張に対しては、救急車を呼んで救助にあたる自己決定権がボクにはあると反論すれば良い。患者様の自己決定権をかざしたインフォームドコンセントという主張に対しては、状況に即した家族の自己決定権がボクにはあると反論すれば良い。

自己決定責任と化した自己決定権に対しては自己決定権によってでしか対抗できません。そのときに自分を後押しするのは、おそらく、自分が守らなければならない信念や理念なのだと思います。その信念と理念のためにボクは至極当たり前な日常を過ごしているに過ぎないのでしょう。