表現の自由はどこまで許されるのでしょうか

千住博という芸術専門家が「芸術とは何かを考えることは、私たちの社会とは何かを考えること」と言ってます。いろんな芸術がある分、いろんな社会があるのかなと。人は頭の中でいろんなことを考えています。それを言葉にするか、絵で表現するか、彫刻で表現するか、音で表現するか。媒体がそれぞれ異なるだけで、基本は同じなのでしょうか。ボクが以前から言っている「文学は芸術である」というのは、そういうことなのです。しかし、頭の中にあるうちはまだ誰にも知られていないから問題ないけど、1度表現として他者に知られるところとなると、いろいろと問題が生じます。富山県で生じた事例を以下に。

富山県出身の美術家である大浦信行氏が自分の作品を富山県立近代美術館に出品しました。「遠近を抱えて」というタイトルで出品されたその作品には、昭和天皇の写真と女性のヌード写真が合成された形で描かれていました。この作品に対して、県議会議員を含む住民らが不快感を覚えたとして問題視し、作品の非公開等を当該美術館に要求しました。美術館はその抗議に対処する形で大浦氏の作品を売却処分し、本来であれば市民らが鑑賞するのを楽しみにしていた機会を奪ってしまったのです。

そこで大浦氏は「表現の自由」および市民らが作品を「鑑賞する権利」を求めて訴訟に踏み切りました。しかし最高裁はその訴えを退けました。裁判所の主張によると、大浦氏の作品に対する抗議活動によって美術館の運営が困難になること、そして展示作品の選定については美術館の裁量に任されるということでした。

この裁判例については、芸術家らが美術館で展示する際に、抗議活動等が起きないように当人らが萎縮して、芸術活動に集中できなくなるのではという懸念の声も上がりました。結果、芸術の表現活動に対して萎縮効果をもたらし、彼らから芸術表現の自由を奪ってしまい、「表現の自由」を軽視することになるのではという懸念です。

覚えてますでしょうか、「シャルリー・エブド事件」もまた芸術をめぐる「表現の自由」の問題として議論されたのが記憶に新しいです。本来は出版社の「表現の自由」が議題に上がるのは、それが「報道の自由」としてであるけれども、『シャルリー・エブド』誌はその風刺画に特徴があるため、芸術としての風刺画という観点から、芸術をめぐる「表現の自由」として論じられたんですね。

『シャルリー・エブド』誌はこれまで数多くの被写体を風刺して物議を醸し出してきました。その中には政治家やカトリック団体等が含まれます。イスラム原理主義への風刺が増加したのは2001年の同時多発テロを契機としてからです。ムハンマドの風刺画はイスラム教徒らの反感を買い、訴訟にまで発展しました。

風刺画の芸術性と「表現の自由」に関してフランスの裁判所は次のように結論づけました。「いかなる宗教といえども、これを批判する自由がある。信者や信仰の対象を表象する自由がある。神あるいは宗教の冒涜は制限されない。風刺画とは文芸ジャンルであり、意図的に挑発を含むとはいえ、その資格として表現の自由を適用し得る」と。つまり裁判所は同誌の風刺画は「表現の自由」が認められる限度を越えてはいないと判断したのです。これには賛否両論あり、実際、その後になって死者を出すまでに至ったのは記憶に新しいです。

富山県立近代美術館事件とは国も被写体も異なるため、簡単な比較は容易ではないですが、大浦氏の「表現の自由」の是非に対する判断を避けた日本の裁判所と異なり、フランスの裁判所は真っ向から「表現の自由」を肯定した点は非常に対照的です。これに対しては、「表現の自由」という大義名分の陰で「風刺の自由」を振りかざして異教徒や異文化に対する差別や侮辱を繰り返すメディアに対する違和感を感じずにはいられないでしょう。高次元の批評精神から生まれるはずの風刺とは呼べないからです。「表現の自由」は最大限尊重されるべきという点について異論はないでしょうが、やはり対象や被写体に対するプライバシー権や肖像権、そして名誉毀損や侮辱とのバランスには慎重を期す必要があるのでしょうね。

何気なくサラ~っと書いたけど「高次元の批評精神」って何なんでしょうね。次元の高い芸術とか音楽とか文章とか言うけど、切り札的に「高次元」って言葉を用いれば議論に決着がつくと考えている人が多いようです。言われた方が食らいついていけばいいだけのことなんでしょうけど、その勇気が無いのか、そう考えて切り返す知能がないのか。よく分かりません。