社会的距離②:なぜ「社会的距離」が使用されるようになったのか?

前回の記事で、「社会的距離」ではなく「物理的距離」だとあちこちで議論されていることについて述べました。その後、いろいろと疑問に感じたことがあって調べてみたので、今回はそのことについて触れておきます。感染予防のために「物理的距離」をとらなければならないのであれば、なぜあえて「社会的距離」という言葉を用いるのか。人との間に物理的に距離をとっていても、社会的には互いに「つながっている」という意味では「社会的距離」という言葉の使用は不適切ではないかということでしたが、どうやら社会の変化に疫学者らが追いついていないのでは。

真の意味で「社会的距離」が実践されたのは紀元前5世紀までさかのぼるようです。真の意味というのは、「物理的距離」イコール「社会的距離」ということです。人との間に物理的な距離を設けることはイコール社会的な距離を設けることであった、そんな時代の話です。旧約聖書レビ記」は禁止事項を記した書ですが、そこにはハンセン病患者を隔離するための以下のような記述があります。

患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。[レビ記13章45~46節]

ヘブライ語で何と言っていたのかは分かりませんが、おそらく「社会的距離」という表現ではないでしょう。感染病を機に「社会的距離」という考え方が導入された最も古い事例として挙げただけなので。その後、「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」という言葉がいつ頃から使用されることになったかについて調べたところ、近代以降だと1900年代初頭のセントルイスのインフルエンザ対策において考え方としての「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」が導入されたことが有名らしいが、当時はその言葉は使用されていないようです。

前回の記事で年代を明記しませんでしたが、社会学者パークの「社会的距離」は1920年代に誕生したものです。ただし、すでに述べたとおり、パークの「社会的距離」は「ソーシャル・ディスタンス」であり「ソーシャル・ディスタンシング」ではありません。いろいろ調べた結果、どうやら「ディスタンシング」の方の「社会的距離」が誕生したのは比較的最近のことです。でも、その言葉の起源を探ることは今回の目的ではありません。今回の目的は、なにゆえに「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」という言葉が誤っているにもかかわらずいまだに使用されているかの理由を探ることですから。

「ディスタンシング」の方の「社会的距離」が誕生したのは2003年です。SARSウィルス対策として打ち出されたものです。そこでの定義には集会禁止、学校閉鎖、劇場閉鎖といった公共空間での規制に加え、感染者隔離や接触禁止といった行動規制も含まれていました。つまり「社会的距離」は本来および現在でもそうですが人との接触を禁じるあらゆる策と位置づけられているのです。ただ一般的には「2メートル」という意味での「社会的距離」が一人歩きし始めただけのことなのです。

では、なぜこのような広い意味での行動規制が「社会的距離」と呼ばれるようになったのか。旧約聖書の事例に戻りましょう。ハンセン病患者は「汚れた者」とされ隔離されて一定期間は離れて暮らさなければならないとありました。当時の物理的な隔離はイコール社会的な隔離を意味していました。今のようにネットや電話もない時代に物理的に隔離されることは、人として生きることを断念しなければならないことを意味していました。人は社会的な存在であるゆえに、人と物理的に隔離されることは社会的にも隔離されることと同じことだったのです。

SARSウィルスが出現した2003年頃はどうだったでしょうか。1995年のインターネット元年から8年経過していたとはいえ、ネット普及率は現在のスマホほどではなく、まだまだネットを通じて社会と「つながっている」と言えるまでの実感はなかったようです。ネットでのエチケットを表す「ネチケット」や市民権を表す「ネチズンシップ」は特定のユーザーのみが享受することのできる特権であった時代です。社会的に当たり前のように普及するにはまだまだ時間がかかったようです。だから、旧約聖書時代ほどではないとしても、当時もまだ物理的に隔離されることは社会的に隔離されることと同じことだったのかもしれません。技術的な普及によってどんなにネットの社会権を強がって主張したところで、一般的感覚ではまだまだそれほどの市民権を得ていなかったというのが実情だったのではないでしょうか。

その後、スマホの普及によって世界はガラリと変わりました。ネチケットネチズンシップが死語となりつつ、ある程度のあまりにも当たり前のネット社会が確立されるのに大きく拍車をかけたのは、紛れもなくスマホだったのではないでしょうか。
 2003年に提唱された「社会的距離=ソーシャル・ディスタンシング」がいまだ使用されていることに違和感を覚える人が多いのもうなずけます。疫学をはじめ多くの自然科学の世界では「社会的距離=ソーシャル・ディスタンシング」はすっかり学術語として定着した概念であるものだから、あえて社会的事情に鑑みた語法を考えるなどという面倒な作業を検討する余裕もなかったのかもしれません。それが今に至って突然「なぜ社会的距離?」とう疑問に直面せざるをえなくなった。そんなところではないでしょうか。これを機に「社会的」とは何たるかについて考えてみるのもいいかもしれません。