社会的距離①:「社会的距離」は間違っていませんか?

新型コロナウィルスの襲来以降すっかり定着したのが「社会的距離」という言葉です。距離を表すディスタンス(distance)がディスタンシング(distancing)と動名詞になっていることから、正確には「社会的距離化」とでもいうのでしょうか。「社会距離戦略」あるいは英語のまま「ソーシャル・ディスタンシング」といったりします。「ディスタンス」が静的な「距離」を、「ディスタンシング」が動的な「距離化」を表します。どうでも良さそうですが、実はどうでも良くないことをこれから説明します。結論から述べると、「社会的距離(social distancing)」という表現には問題があって、それについては英語圏でも指摘されているところです。それも併せて、これから説明します。

まずはじめに、人が他人とどの程度の距離を置くかについて、文化人類学者のエドワード・ホールがまとめた4つの距離というのがありますので、以下。

  • 密接距離(18インチ以内)
    愛撫、格闘、慰め、保護の距離。
  • 個体距離(1.5~4フィート)
    個人的な関心や関係を論議することができる距離。
  • 社会距離(4~12フィート)
    個人的ではない用件が話される距離。
  • 公衆距離(12フィート以上)
    敏捷な者が脅かされたときに逃げるか防ぐことができる距離。
                                         エドワード・ホール『かくれた次元』より

いま世界中で話題になっている「社会的距離」はホールがいうところの「社会距離」に相当するでしょう。でもホールがいう「社会距離」の「距離」の部分は英語だと「スペース(space)」になってます。どちらかというと「空間」と訳されることが多いです。では「空間」と「距離」は何が違うのでしょうか。分かりやすくいうと客観と主観の違いです。

空間(スペース)は「近い」とか「遠い」という感覚を伴わない物理的な感じのするものです。中立的な感覚とでもいうのでしょうか。それに対して距離(ディスタンス)は「どれくらい離れているか」という感覚で「離れている」ことに重点が置かれます。単にAとBの距離というよりも、AがBからどれくらい離れているか、または遠ざけられているかという意味が含まれています。この「遠ざけられている」という感覚が空間(スペース)には無いのです。日本語だと空間と距離にそれほどの差を感じませんが、英語だと事情が少し異なります。このことを理解したうえで「社会的距離」を検討しなければならないのです。

そもそも「社会的距離(social distance)」という概念はアメリカの社会学者ロバート・E・パークが社会的な疎外を説明するために考え出したものです。近代化と都市化が加速して、人々は周囲に見知らぬ人たちが多く存在する世界に生きることを余儀なくされました。それに加えて、多くの移民たちがアメリカに流入するわけです。幾つもの移民で構成されるアメリカ社会だからでしょうか、みなさん異民族と接触しながら生活して様々な価値観と文化的な葛藤に向き合わなければならなくなりました。自分が持って生まれた文化的かつ伝統的な価値観とアメリカでの新しい価値観とのあいだで「ゆらぎ」が生まれます。

すぐそばにいる人は物理的には近しい存在ではあるけれども、心理的かつ社会的には遠い存在となるわけです。自分とは異なった価値観の人たちと生活圏を共有しなければならないけれど、どこかで疎外感のようなものを感じるようになったでしょう。アナタはワタシとは物理的には近いけど社会的には遠い存在。ワタシの育った社会とは異なる価値観を持った存在。そうやって身近の人に対して物理的には距離感がないにもかかわらず、社会的には距離を感じるようになったのです。「カレとは距離を感じるわ」というときの「距離」です。つまり「われわれ」と「彼ら」という境界線が生まれたわけです。それが「社会的距離」の本来の意味なのです。

話を元に戻します。いま巷でよく耳にする「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」ですが、指摘されているのは他人と十分な距離をとりなさいということです。であるならば、別に「社会的距離」ではなく「物理的距離」でいいのではないのでしょうか。パークの概念からも明らかなように、感染症対策の話というよりは、人間の心理的な距離の話になり、両者は学術的に大きな解釈の違いがあるのです。

実はいまアメリカを中心に、この「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」という言葉は間違っているという指摘が頻繁になされています。3月20日にWHOの疫学者マリア・ケルクホーフェは「物理的に離れていても他人とはつながっていて欲しい」ことを理由に「物理的距離」という言葉の使用を訴えています。シンガポールでは「安全距離(safe distancing)」と言われているそうです。スタンフォード大学の心理学者ジャミル・ザキは「社会的距離」をひっくり返して「距離をおいた社交(distant socializing)」を提唱しています。「社会的距離」という表現だと人と社会的にも距離をとりなさいというメッセージを送ることになるからでしょう。物理的に距離をとるだけでなく、社会的にも距離をとりなさいという負のメッセージなのです。要するに、社会的に孤立することを奨励する感じになってしまうのです。「距離をおいた社交」だと、物理的に距離があっても社会的にはつながっているんだというメッセージになるわけです。

「ディスタンス」という言葉には単なる距離ではなく「離れる」という意味が含まれていることは最初に説明したとおりです。日本語で「距離」というのと異なって、英語圏では「ディスタンス」は人から離れるという疎外感を伴うものなのです。普段から身体接触が多い欧米人にとって「ディスタンス」という表現は日本人が考える以上に酷で悲しいものなのです。ただでさえ人と物理的に離れなければならないのに、社会的にも離ればなれになってしまうなんて、酷な話です。

もうひとつ大切なことがあります。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)が最近定義したところによると「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」とは他人との距離をとることのみならず、そもそも人が集まることを回避する、すなわち外出を自粛することも意味します。家から一歩でも出て人と接触することを禁じられることを「社会的距離」と呼ぶことへの抵抗感は、わたしたちが想像する以上のストレスになるのかもしれません。たかが言葉、されど言葉。

では変えれば良いのですが、そうもいかないようです。ボストン大学の医師トーマス・パールによれば、人々を混乱させてはいけないからだそうです。今回の騒動が一段落したらいろいろなことが検証されることでしょうけど、「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」もそのリストに挙がるのではないでしょうか。アナタとワタシは物理的には離れていても社会的にはこうやってネットを介してつながっているのです。