敬意という名のもとに

29日に新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった志村けん氏のニュースが列島を悲しみに包みました。このニュースを受けて、翌30日に小池百合子東京都知事は「最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。お悔やみ申し上げます」と述べましたが、小池氏の発言には「功績というのは違和感がある」とか「人の死を何だと思っているんだ」といった批判がありました。亡くなった方に対する敬意を表した小池氏の気持ちも分からなくもないですけど、他に言い方があったかもしれません。ただ、言い方に問題があっただけで、それ以上の深刻な、例えば死にゆく者への冒涜だといった批判は少し大げさかもしれません。むしろ志村氏のニュースを切っ掛けに多くの人たちが我が身のことのように新型コロナウィルスについて考えるようになったという意味では、不本意ではあるものの「功績」という表現に問題はないように思われます。それよりも考えなければならない問題がイタリアで起きてしまいました。

あるイタリア人神父が、使用していた人工呼吸器を自分よりも若い新型コロナウイルス患者に譲って「慈悲の殉教者」と呼ばれているという報道がありました。72歳のジュゼッペ・ベラルデッリ神父は15日、イタリア北部ロンバルディア州の病院で息を引き取りました。神父が使っていた人工呼吸器は、彼の教区の若い信徒に譲られたそうです。これを知った住民らは彼の死を知ると窓越しから拍手で称えたそうです。いわゆる英雄物語が誕生した瞬間です。

しかしその後、実はこれがフェイクニュースであったことが判明しました。神父の友人いわく「神父は基礎疾患のために重症化して亡くなった」とのこと。結果的にフェイクニュースではあったものの、このニュースの背後には命のリレーという美談が容易に成立する風潮がうかがえます。未来を期待される若者に対して高齢者が命を譲るという風潮が知らず知らずのうちに私たちの社会に浸透していることに気づかされます。 

こういった風潮の浸透は今に始まったことではありません。例えば尊厳死安楽死をめぐる現場においても、患者を楽にさせてあげたいという家族の思いは理解できるものの、患者本人までもが尊厳死安楽死を望む背景には、単に苦しみたくないとか尊厳なくして生きているのは苦痛だと感じる以外にも、看護や介護に携わる家族に迷惑や苦労を強いることになるといった現状が、少しずつ患者に「生きていては迷惑になる」というプレッシャーを与えることになるという実態もうかがえます。

今回の新型コロナウィルスを切っ掛けに、これまでは思考実験のレベルで単に想像力を培っていたような問題に向き合わざるを得ないような状況に至ってしまいました。感染者数がこれ以上増加して医療体制が崩壊する危機を迎えたら患者を選別せざるを得なくなりますと述べた医師もいました。

さらには、そういった命の選別に違和感を通り越して憤りを感じる場面に出会すこともあります。ある番組内でジャーナリストの木村太郎氏が感染症をめぐる議論に激昂する場面がありました。「国民全体の利益のために年寄りが感冒して死んじゃうっていうのは.....とりあえず(高齢者には)我慢してもらおうって議論が今、通っている訳。この姥捨て山議論だけは許すことが出来ない」と怒りを露わにしてました。

わたしたちは知らず知らずのうちに、若い人には将来があって高齢者には先が無いという考えを無批判に受け入れて、その方程式を諸問題を解決する際のメルクマールとするきらいがあるようです。フェイクニュースであったとはいえ、神父の美談を賞賛した人たちはおそらくは犠牲になった神父に対して最上級の敬意を表したつもりでしょう。しかし、そのような決断を神父に強いたり、家族に迷惑をかけないように尊厳死を選択するような決断を強いたりするような社会の成員として、わたしたちは恥ずかしくないのでしょうか。

思考実験のような冷静な状況においては「人命に優先順位は無い」と言い切るものの、いざ現実を目の当たりにしたときには人命は選別可能なものとなる。遠い昔に闇に葬り去ったつもりの優生学が要所要所で存在感を示すことがあります。そのような些細な一コマをいかに抽象化して社会という漠然とした集まりに正当な機能を担わせるべきなのか、わたしたちは今一度ここで考えなければならないのでしょう。

いま介護が大きな問題になっています。介護は子育てと類似する点がありますが、批判をおそれずあえてその違いを述べるならば、子供には未来があり介護老人には未来が無いということでしょうか。しかし介護に携わる人たちの多くは「未来」に何かを期待しているのではなく、「過去」においてこれまで享受してきた賢者の贈り物に対してせめてこんなことくらいはとの思いでいるという声も聞きます。加えて、過去は確かに存在したものであり、未来はいまだ存在しないという小学生でも分かる事実を肝に銘じなければならないことでしょう。存在したことに最大の敬意を表す。それはけっして命の犠牲に対して惜しみない賞賛を送って一時的な尊厳を理解したつもりでいるような無為な偽装ではなく、形のないものの中に意味を見出す試みによって容易く選別することのできそうなものをあえて選別することのできないものにするといった先哲の知恵を引き継ぐ営為なのではないでしょうか。