もっと昔から地球はグローバルだった

いったいいつからグローバル社会と言われるようになったのでしょうか。若い人の中にはすでに生まれた時からグローバル社会だったというグローバルネイティブも多いです。ボクなりに振り返ってみると、グローバルという言葉はさておき、概念としてのグローバリゼーションという感覚を意識しだしたのは村井吉敬氏の『エビと日本人』という本を読んでからです。先日たまたまチェックする機会があって、ついでに似たようなタイトルに鶴見良行氏の『バナナと日本人』というのがあったのを思い出しました。どちらも今から約30年前に書かれたものです。2つの本の共通点は、日本人になじみのある食べ物がどこから、そしてどのようにして私たちの食卓にやって来るのかというものです。

このようなタイトルが多くの読者を引きつけたからかもしれませんが、それ以降も似たようなタイトルの本がたくさん出版されています。『魚と日本人』『かつお節と日本人』『昆布と日本人』。食べ物以外の『カフェと日本人』や『茶碗と日本人』といったものや、『漢字と日本人』『葬儀と日本人』『核と日本人』、そしてついには『読書と日本人』といったものまでが出版されています。それぞれのテーマが日本人とどのように関わっているかという点で共通しますが、初期のバナナとエビに関する本は、日本の日常と世界を結びつける背景が食品を通じて語られているという点で、それ以降の本とは大きく異なっているように思います。

『エビと日本人』では、まずエビを捕獲する人々の姿が描かれています。エビは主に東南アジアにおいて捕獲されますが、捕獲にはトロール漁法が用いられます。網を海底深くに設置して数週間かけて操業するトロール船を使用した漁業で、その現場が詳しく記されています。

次に、エビを養殖する人々の姿も伝えられているのです。インドネシアや台湾には養殖が組織的に運営されている村があります。エビを専門とする養殖業者の中には成功するものも失敗するものもいるのです。いずれにしてもエビに翻弄される人々が私たちの知らないところには存在します。

さらにはエビを加工する人々というのもいます。調味料を作ったり、箱詰めをしたりする人々がいますが、そこには女性の姿が目立ちます。低賃金で雇われている女性たちの実態を垣間見ることができるのです。格差社会の原点を見ているように感じました。

そうやって日本に輸出され、最終的には消費者に向けてエビを売る人々がいます。スーパーなどでは当たり前に売られているエビではありますが、買う側には分からない、売るための戦略といった舞台がそこにはあるようです。

このようにして、普段あまり考えずに口にしているエビを介して、実は消費者である私たち日本人と東南アジアは切っても切れない関係で結ばれているのです。

現代はグローバル化した社会であると言われます。ネットを介して世界と瞬時につながるということもですが、ある地点で起きたことの影響が地球上の他の地点に及びやすくなっているのを、私たちは昨今の新型コロナウィルスの流行で実感しています。そうやってどこかで地球全体がつながっているからか、世界が身近に感じられるようになりました。食卓を見渡せばいろいろな国からやって来た食材で盛られた食べ物が並んでいます。瞬時に世界とつながることを肌で実感できるということでグローバル化と言われるようになったのでしょう。

でも『エビと日本人』を読んだ限りでは、グローバル化というのは何も最近になって始まったことでもないような気がします。私たちがただ知らなかった、あるいは実感できなかっただけの話で、実際にはもっと以前から世界と私たちはどこかでしっかりとつながっていたのだという印象を抱かざるを得ません。ネット社会は確かに私たちがグローバル化を実感できるものにしました。しかしグローバル化はもっと昔に始まっていたのです。今もその途上にあるだけなのかもしれません。30年近く前に書かれた本は今でも新鮮で、いろいろなことを想像させるものです。