私に指示を出してください

新型コロナウイルスの感染急増を懸念して都道府県の各自治体が市民に対して不要不急の外出を自粛するよう要請しています。もうすっかり定着した「要請」という言葉。検査結果の「陽性」という言葉と並んで聴覚的に敏感に反応することとなった「ヨウセイ」ですが、今回は「要請」の方を手掛かりに決定権について考えてみたいと思います。

いまさら書くまでもありませんが、「要請」は「指令」や「命令」ほどの法的根拠はありませんし、したがって拘束力もありません。これもまた分かりきったことではありますが、「要請」は法的根拠も拘束力もないゆえに最終的な判断は市民ひとりひとりに委ねられます。良識ある市民であることを前提に効力を発揮できるからこそ「要請」で事足りるという解釈でしょう。

言い換えるならば、「要請」に対してどう応えるかは市民の判断に任せられるという意味において「要請」は自己決定権へと導かれます。批判を覚悟でさらにこれを意味変換するならば、「要請」とはそれを発動する当事者による無責任な態度を意味することになります。

ではなぜ無責任な態度を取るのかというと、それは自分が責任を取りたくないからであります。半ば同語反復的とも思われる解釈ではありますが、それは、責任の行方が帰着するのが「要請」した当事者ではないことと、責任のなすりつけ合いを強調することを意図したものであるからです。なぜ責任を取りたくないかというと、それは無責任だからです、そして、なぜ無責任かというと、それは責任を取りたくないからであります、といった具合に。

「要請」と異なり「指令」や「命令」には責任が伴います。不特定多数の市民に対して無差別的に責任を負うのは躊躇するものです。でも特定少数の人々に対して責任を負うのはそれほどたいした苦痛を伴うものではありません。それゆえに、例えば勤務先である東京都内への移動自粛が要請された千葉県在住の会社員に対して都内のビジネスホテルに宿泊せよと指示を出した会社などは、国家や地方自治体が発動する「指令」ほどの痛みを伴わずにいられるわけであり、仮に都内のビジネスホテルに宿泊せよという「要請」であったならばそれほどの拘束力を伴わないために意味が無い、あるいは「要請」を「指令」と解釈する忖度が社員には求められるといった別の問題が生じるわけであります。

責任を伴うのは苦痛ではありますが、裏を返せば、リーダーシップを発揮できる機会でもあります。週末の外出を控えるように「要請」した東京都知事にしても、府県の往来を控えるように「要請」した大阪府知事兵庫県知事にしても、K-1の開催を自粛するように「要請」した埼玉県知事にしても、「要請」を「指令」や「命令」に近づけるための下地作りをしても良かったのかもしれません。その意味では、2月の時点で緊急事態宣言を出した北海道知事の英断は、たとえ当該宣言の後に外出自粛を求めたのが「要請」であったとはいえ、他の知事らの「要請」とは一味違ったものであったと言えるでしょう。

国が具体的な指示を出さないからどうしてよいか分からないという知事、そして、知事が具体的な指示を出さないからどうしてよいか分からないという市町村長、はたまた、市町村長が具体的な指示を出さないからどうしてよいか分からないという住民。みんな上からの「指示」を待っているのであって「要請」を待ち望んでいるのではありません。でもこれ、本当に自治体の本来の姿なのでしょうか。

地方公共団体による「自治」は中世ヨーロッパにさかのぼります。封建領主に支配されていた当時の人たちは自分たちで治める文字通りの自治を目指して闘争しました。これを本来の意味でのオートノミーといいます。自治を英語に訳しただけのものですが、オートノミーには自治以上の権限という響きを感じとることができます。そもそもオートノミーとは付与されるものではなく自ら獲得するものであります。だから本来は自治もそういうものであるべきであって、自治体にはその解釈に即した権限があってしかるべきものなのです。

ところが、新型コロナウィルスをめぐる対処をめぐって各自治体は一様に「指示してくれ」と言わんばかりの自治意識です。学校にしても同様で、自治体の判断が待ち遠しいようです。それはまるで自分で何をして良いか分からず先生からの課題を指示待ちしている生徒を見ているようです。普段は「主体性を持って」とか「自分で考えて」と説教する立場のいい大人が、要請に対して自ら決断できないから指令を待っているようですが、そんな背中を子供が見ているということに気づかないのが不思議でなりません。

「要請」は「指示」ほどの拘束力を伴わないがために、要請する側としては責任から回避することができますが、裏を返せば、拘束力を伴わないがために、要請される側としても義務から回避することができるという利点があります。この利点を何ゆえに各自治体や各団体は有効に活用して自治権を執行しないのでしょうか。ピンチはチャンスと言いますが、今こそ自治権なり決定権を活用して自分のリーダーシップを発揮する場面ではないのでしょうか。このようなチャンスを有効利用できない悲観的なリーダーに私たちは何を期待すればよいのでしょうか。

完全な自治を有することがないという意味での「半オートノミー」とか「準オートノミー」という概念もありますが、制約されたオートノミーはそもそもオートノミーなのでしょうか。垂直な水平線と同じくらいに単に思考実験を促すだけのものであり、この後にどんな言語ゲームが想定されているのかということに関心を寄せる程度の魅力しかボクの頭には思い浮かびません。このあと何を書けば良いか分からないので、どうか私に指示を出してください。