『第1章:マージナル・マンからグローバリゼーションへ①』(ワニ先生の修士論文)

 
第1節:マージナル・マン理論の展開

 

1928年の論文「人間移動とマージナル・マン」において初めて「マージナル・マン」の概念を明確にしたのはR.E.パークである。しかし、それよりも年近く前に、近接する「ストレンジャー」という概念が1908年、ジンメルによって提起された。「ストレンジャー」概念はその後、多くの研究者らの興味をそそることとなる。同時に、これらの概念は、その後のエスニシティ研究の布石ともなった。マージナル・マンもストレンジャーも、その後、一般的議論においては補足的にのみ取り上げられていたが、その両者は殊に同義としてみなされてきたきらいがある。二つの概念の明確な定義がどのようなものであるかもさることながら、これらを用いて何をその分析の対象としたかに注目しなければならないであろう。

以下では、マージナル・マン概念の発展をジンメル、パーク、ストーンクウィストの順に、そしてマージナル・マン理論の焦点をストーンクウィストを中心にして考察する。ジンメルストレンジャー論からパークのマージナル・マン概念へのつながりに注目しよう。マージナル・マン概念に関しては、師であるパークの概念をさらに発展させたストーンクウィストを中心に論じていこう。 

(1) ジンメルストレンジャー

G.ジンメルによると、ストレンジャーとは、「今日訪れ来て明日去り行く放浪者としてではなく、むしろ今日訪れて明日もとどまる者、いわば潜在的な放浪者、旅は続けはしないにしても来訪と退去という離別を完全には克服していない者」[Simmel, 1908=1994: 285]であり、「一定の空間的な広がりの内部に定着してはいるが、しかしこの広がりのなかにおける彼の位置は、彼がはじめからそこへ所属していないということ、彼がそこには由来せず、また由来することのできない性質をそこへもたらすということによって、本質的に規定されている」[Loc. cit.]者であると述べている。ジンメルは、ストレンジャー(個人)と社会システム(集団、制度、共同体)間にある関係に関心を持った。ストレンジャーを、相互行為が持たれる集団に対して常に周縁的であり、マージナルである存在としている。その一例として、直接的な取引はするものの同化は試みない行商人が挙げられる[Ibid.: 286]。ストレンジャーの立場的特徴は、集団に対して近くもあり、同時に、遠い存在でもある。そしてストレンジャーはその曖昧な所属ゆえに、どの集団からもとらわれない客観性をもって物事に対処できる、とした[Ibid.: 287]。ジンメルストレンジャーのこのような客観性を「自由」とよび、「客観的な人間は、所与のものの受容と理解と考量とをあらかじめ決定するかもしれない束縛に、まったく拘束されず/(中略)/状況をより偏見なく見渡し、それをより普遍的より客観的な理想で判定できる」という。ストレンジャーのこのような「客観性」あるいは「自由」は、その後のストレンジャー議論の中でも度々触れられることとなる*1

(2) パークのマージナル・マン                            

アメリ社会学においては、社会類型としてのストレンジャーはR.E.パークが言及したマージナル・マンに等しいものとされる。パークはストレンジャーのそのような合理的、知性的な側面にも注目しつつも、異民族の接触と文化の葛藤に関心を傾け、それ以後の展開でも「葛藤」が中心に語られてきた。パークは黒人問題と移民問題という1920年代の状況から、最初に「マージナル・マン」という語を設定した。ジンメルストレンジャーを「形式」社会学的にしか取上げてこなかった。一方、パークは、「ストレンジャー」の「内容」にあたる文化の部分に焦点をあて、特に「文化葛藤」の概念を導入することで、マージナル・マンの概念をより明確にした[折原、1969: 52-61]。すなわち、ストレンジャーの合理性と知性のみを問題にしたジンメルとは異なり、パークは、ストレンジャーの感情的、情緒的な側面を大きく取り上げたのである。そしてパークの「マージナル・マン」概念の基礎をなすのが、「4つの社会過程(the four types of social process)」から派生した「人種関係周期(race relations cycle)」である。

パークによると、集団間の接触は必ず「人種関係周期」の段階を経る。移住のような根本的社会変化が集団間の歴史に循環的周期をもたらすのである。「人種関係周期は、接触(contact)、競争(competition)、応化(accomodation)、最終的な同化(assimilation)、という段階的かつ不可逆的な過程を辿る」[Park, 1950: 150]*2接触段階では、移住によって集結した人々は経済競争へ参加し、新しい社会組織を構成する。ホスト社会と移民社会の接触は競争や闘争をもたらし、やがて応化へと発展する。応化は急激に起こり、移民集団は新しい環境への適応を余儀なくされる。接触から直接的に同化に発展することもあるが、通常は大きな障害に阻まれ、完全に同化するには時間を要する[Loc. cit.]。「同化とは相互浸透と融合の過程であり、個々人や集団は他集団の追憶、感情、態度を獲得し、彼らの経験や歴史を共有することによって、共通の文化生活に織り込まれる」[Park, 1921: 735]。

このように、同化という概念は、通常の使用法において定義される限り、移民の問題との関連でその意味を獲得する[Ibid.: 734]。しかし合衆国における同化は、ヨーロッパと異なり、自然な過程であり、決して強制されたものではなかった。いずれにせよ、強制的であれ、平和的であれ、画一化の過程が同化であり、合衆国においてはアメリカナイゼーションと同一の意味で用いられた[Yinger, 1994: 39; Tamura, 1994: 49]。そして、同化に失敗することがマージナル化の原因とされた。異人種の完全な同化は「人種の坩堝(melting pot)」をイメージしたものであった[Park, 1921: 734]。

“Human Migration and the Marginal Man”(1928) におけるパークの「マージナル・マン」定義は以下の通りである。

二つの異なる民族の文化生活と伝統の中に、両者に緊密に関与しつつ生きている文化的雑種であり、かれの過去や伝統と縁を切ることが許されていても、自ら進んでそうしようとはせず、新たに自分の場所を見つけなければならない新しい社会の中にも、人種的偏見のために十全には受け容れられず、また、決して完全には浸透し合わず、融合もしない二つの文化ないし二つの社会のマージンに佇む人間。[Park, 1950: 354]*3

新しい価値に同化していけば葛藤というジレンマもしだいに減少するが、自分が培ってきた世界を容易に裏切るわけにはいかない。そこで、彼らのなかに状況の定義の分裂が生じる。移民の心に生じる文化的葛藤は、「分裂した自己(the divided self)」、つまり、古い自己と新しい自己の葛藤である[Park, 1950: 355]。しかしパークは、異人種の文化的同化への障壁は「彼らの異なった精神的特徴ではなく、多様な身体的特徴によるものである」[Ibid.: 353]とし、ストーンクウィストが人種的ハイブリッドと文化的ハイブリッドを区別してマージナル・マンを類型化するための足掛かりを築くことになる。

(3) ストーンクウィストのマージナル・マン

パークによって設定されたマージナル・マンの概念をより発展させたのがE.ストーンクィストである。パークによって提示された基本的なスタンスを崩すことはなかったが、ストーンクィストの特徴は、それ以前には提示されなかった①マージナル・マンのライフサイクルや性格特質を精緻化したこと、②文化的葛藤が混血(racial hybrid)を伴う場合とそうではない場合(cultural hybrid)を区別していること、③適応に際して生じる問題(パッシング)を具体的に提示していること、④社会学的な意義を追求するために、パークにはみられなかった「マージナル・カルチュア」を問題にしていること、である。上記の問題を徹底的に精緻化させたことの動機として、ストーンクウィストが「マージナル・マン」の理論化を試みていたことが伺われる。かくして、パークによるマージナル・マン「概念」は、ストーンクウィストによってマージナル・マン「理論」となっていった。ストーンクウィストによる『マージナル・マン』の概要は以下の通りである。

まず、ストーンクウィストによる『マージナル・マン』の引用から始めよう。この本のわずか最初の数ページではあるが、ここには、良くも悪くも、マージナル・マンの本質が抽出されている。この本が出版されたのは今から六十年以上も前のことであるが、未だその輝きは失われてはいない。

 人間は、誕生の瞬間から、誰もが一連の社会的影響という潮流に反応する主体となる。最初の言葉を習い始める以前に、あるいは、初めてのほんのかすかな自己意識を体験する以前に、人は活動、基準、対象といったものによって構成される、文化と呼ばれる複雑な全体の影響を授かる。言語の習得に伴って、人の心的、社会的、そして身体的な発達は新しい側面へと拡張され、人は徐々にだが、意識的に自分の社会集団の期待に適応するようになる。他者との意識的な相互作用と同様に無意識的な相互作用をも通じて、人は次第に特定の社会的世界において認められた場所を獲得し、将来を展望し、そして、ある基準に応じて生活・行動するようになる。基準のうちの一つは自尊心であり、もう一つは自らの社会集団において制度化されたコードである。基準はこの両者に深く根ざしたものである。自分自身に対して、そして自分の属する社会的世界に対してうまく適応できれば、成熟し、調和したパーソナリティを獲得する。
 このようなパーソナリティは、正常な資質を持って生まれ、十分に安定し組織化された社会に生きる場合に、最も容易に、そして最も自然に発生する。/(中略)/取得すべき部族的あるいは国家的伝統は一つしかない。習得すべき言語も一つしかない。政治的忠誠心も、順応すべき道徳的コードも、従うべき宗教も一つしかない。社会システムの統合と調和は、パーソナリティの統合と調和に反映される。/(中略)/今日そのような安定化した社会は、比較的隔離され、保護された人々、階級、集団内においてしか見られない。経済競争と変わりゆく社会関係に象徴されるこの現代世界(modern world)は、変動と不確実性を基調とする状況に個人を位置づける。固定的あるいは不変的な適応(adjustment)は不可能になる。世界は変わり、個人も継続的に再適応しなければならなくなる。このような適応を完全に成し遂げられない可能性は、これまで以上に高くなる。社会的適応不全(maladjustment)は、それが些細なものであれ大きなものであれ、現代人(modern man)の特徴となる。
 このような社会的混乱は、二つの大きな人種的あるいは文化的集団の狭間に位置する諸個人のケースにおいて、明確にそして顕著に見られるが、それはまた、社会階級、宗教的セクト、共同体といった小さな集団関係においても明らかである。個人が、移動、教育、婚姻、あるいは他の影響によってある社会集団や文化から満足のいく形で適応せずに他に移行した場合、各々はそれぞれのマージンに佇むが、そのどちらの成員ともなれない。「マージナル・マン(marginal man)」なのである。
 マージナルなパーソナリティは、知らず知らずに二つ以上の歴史的伝統、言語、政治的忠誠、道徳的コード、あるいは宗教などに帰属することになる者の中に最も明確に描き出される。これは、例えば、移動(migration)の結果として生じる。現代世界では移動が広く普及するため、ほとんど全ての土地や都市は、複数の人種や国籍の坩堝(melting-pot)のようなものとなる。合衆国のような新しい国は、世界規模な状況(world-wide condition)の顕著な一例に過ぎない。
 従って、マージナル・マンの類型を見つけるのに苦労を必要とはしない。マージナル・マンはあなたの隣近所にいる可能性もある。若い頃に富を求めて何処か遠くの国の農村を出て、より新しく豊かな土地にやって来た、経済的には成功しているが社会的には不適応な移民でもあり、また、移民した祖先から受け継いだ予想外の遺産(unanalyzed hangover)に苦しむネイティヴの息子でもあり、あるいは、ゲットーという物理的な壁(walls)からは解放されたものの、歴史が残した集団的態度に課された小さくても執拗な障壁(barriers)からは解放されないユダヤ人でもあり得る。またそれは、外見からはその出身を隠しきれないが、内的パーソナリティは我々の隣人のそれと区別がつかない、黒人、黄色人、あるいは混血でもあり得る。 [Stonequist, 1937: 1-3]

上記の引用は1937年に遡るものである。それゆえ、「現代社会」というのは「近代社会」を、「現代人」というのは「近代人」を指すのは言うまでもなかろう。しかし、これほどまでに現代(近代ではなく、グローバル化した、文字通りの現代)を表現したものとして錯覚を引き起こす可能性のある「近代分析」も数少ないであろう。グローバリゼーションが徹底化した現代を言い表していると勘違いする者も多いのではなかろうか。例えば、「変動と不確定性を基調とする状況」とは、近代というよりも、むしろ現代を象徴する一つの特徴のように思われる。なるほど、現代人の特徴「となる(becomes)」のだ、とストーンクウィストは述べているのであって、特徴「である(is)」のではない。つまりこれは、近代から現代へのそのような移行を示唆するものなのである。マージナル・マンとは、パークやストーンクウィストの時代においては、未だ、一種の社会病理なのであった。

パークの定義でも既に明らかとなったが、文化的変動や文化的葛藤の発生するところではマージナルなパーソナリティが生じることとなる。文化的差異が重大な関心事である場合、二つの人種的差異が著しく明確である場合、そしてその二つの文化の社会的態度が敵対し合う場合、諸個人の問題はただならぬものとなる。社会的結合のこのような二元性は、諸個人のパーソナリティや態度、そしてセルフのあり方に反映されることとなる。しかし、社会の二元性はそのまま個人の問題に反映するとは限らない。人間なら誰しも、生まれ落ちた社会の要請を受けるものである。関わりを持つ集団の数だけセルフの数も存在する。社会的セルフ(social self)である。つまり、人間なら誰しも複数のパーソナリティを有すこととなるのである。

パークとは異なり、ストーンクウィストは、一つの文化を担う集団の成員が、より大きな威信と権力をもつ異質な文化を担う集団に接触し、同化しようとする際に複合的な社会結合状況が生じる、と考えた。つまり、ストーンクウィストは、階層的構造を変数として導入し、マージナル・マンの問題を捉えていた。文化的葛藤は多くの場面で見受けられる。宗教とセクト、科学と神学、都市と農村といったように。そして、階層間、共同体間、性別間においても同様である*4[Ibid.: 4]。

しかしストーンクウィストは、そのような文化間葛藤も、人種や国籍を取り巻く葛藤ほど深刻なものではないとする。諸個人の人種的そして国家的メンバーシップは、比較的、固定的で永続的なものと考えられているからである。混血が「パス」して自分の素性を証さないようにする場合はともかく、一般的には人種を変更することはできないし、国籍の問題も、自分の周囲を取り巻く環境を形成するものであるがゆえに、拭い去ることのできない傷跡のごとく記憶に残るものとなる。それゆえ、「人種的あるいは国家的アイデンティティは、個人の自我にとって、もっとも重要な要素の一つとなる」[Ibid.: 7]。近代社会が国家の原理に直接的にも間接的にも左右されていたことを考えれば、ストーンクウィストのいうようなアイデンティティ観は驚くべきことではない。以上のことから、修正されたマージナル・マンの定義は次のようになる。

本論考で考えられるマージナル・マンとは、複数の社会的世界に挟まれて、心理的不確定な状態におかれている者である。彼らの存在は、これら複数の世界の不調和と調和、憎悪と誘惑を反映したものである。しばしば、そのうちの一つが他に対して優勢的である。成員資格は、明確ではないにしても、出生や家系(人種あるいは国籍)に左右され、例外にあたる者(exclusion)に関しては、その個人を集団関係システムから放逐してしまうのである。[Stonequist, 1937: 8]

このような定義はマージナル・マンの対象を限定するものではない。しかしストーンクウィストは、その対象を人種と国籍を軸として念頭においていたようである。そのため、ストーンクウィストは、マージナル・マンが誕生する状況を、文化的差異が人種的、生物学的差異を伴う場合(racial hybrid)と、文化的差異のみの場合(cultural hybrid)の二つに分け、人種的差異を伴う例として混血を挙げている。身体的に際だった特徴は両親のどちらの人種とも個人を区分してしまうからであろう。しかし、混血は決して新しい現象ではない。実際、厳密な科学的見地からすれば、純粋な人種というものは存在しない。そこでストーンクウィストは、社会的要因を導入することによって、混血の問題を階層的地位の問題として位置づけた。人種的ハイブリッドとしてのマージナル・マンの地位は、二つの集団の中間に挟まれ、不確実で曖昧となる。

ストーンクウィストは混血の事例として、インドのユーラシアン混血/南アフリカのケープ・カラード/アメリカ合衆国ムラート/ジャマイカのカラード/ジャワのインド・ヨーロピアン/混血ハワイアン/ブラジルのメティスを挙げている。これらの事例はケース・スタディとして展開されるが、ここで挙げられた事例の順序はそれぞれの文化受容の度合いに比例している。

例えば、インドの事例では、「アングロ・インディアン」あるいは「ユーラシアン」とよばれる混血は、インド人と英国人の両方から完全に排除されている。カースト制度は、論理的に、異民族間の婚姻とそれに伴う子孫に対して、強い嫌悪を示す。さらに、英国の支配的地位が威信を守るために異人種間の結合を厳しく非難していたことが彼らの不安定な地位に拍車をかけていたことは言うまでもない。それゆえ、ユーラシアン混血は、二重の意味で追放された、つまりアウトカースト混血の状態であったのだ[Ibid.: 12]。

一方、比較的に文化受容度の高い混血ハワイアンは、一つの“人種”として確立し[Ibid.: 38]、ユーラシアンとは対極にあるブラジルの混血「メティス」に至っては、白人同様に支配階級を構成することもある[Ibid.: 44]。事例のこのような配列は、ストーンクィストの師でもあるパークの「人種関係周期」を意識したものであると思われる。そしてその背後には、人種間闘争の問題が潜んでいる。互いの闘争が激しく、偏見や差別が顕著な場合はマージナル・マンは階層的上昇移動は望めず、そうでない場合は優越集団への接近が可能となる。

次に、文化的差異が人種的差異を伴わない(以下、「文化的ハイブリッド」とする)場合として、ストーンクウィストは、欧州文化の拡散/欧州化したアフリカン(ケニア)/西洋化したオリエンタル(インド)/欧州内の葛藤/アメリカン・ネグロを個別に分析している。

故国の文化を離れ、新しい文化状況に同化しきれない人々が考えられる。ストーンクウィストの事例では「移民」が挙げられる。移民の次世代もまた、家族から引き継いだマイノリティとしての文化と、より広い集団から要請される文化との間に挟まって「第二世代」マージナル・マンとなる。ストーンクウィストの事例では、ディアスポラの「ユダヤ人」や「アメリカン・ネグロ」はこの類型の典型例として数えられる。

マージナル・マンは、自分自身が移動した場合だけではなく、外部からの異質な文化の侵入を受けた際にも、その支配に服した人々の中に生まれる。近代における西洋諸民族のグローバル規模の拡大は、マージナル状況を生み出す主要因となった。人種的ハイブリッドとしてのユーラシアンのみならず、インドにおいては、ヨーロッパの血を交えない文化的ハイブリッドとしてのマージナル・マンが誕生した。

さて、ストーンクウィストの事例は全て、ヨーロッパとの文化融合に関わるものであった。

この世界規模に及ぶ文化変容の発展における主たる影響は、地球の隅々に行き渡るヨーロッパ文明の拡散につながった。/(中略)/西洋の拡散は急速に進み、圧倒的であったため、漸進的な適応および同化は不可能であった。その結果、文化葛藤の問題が生じたのである。[Stonequist, 1937: 55]

すなわち、地球規模のヨーロッパ化、あるいは、西洋化としてのグローバリゼーションが、近代においてマージナル状況を発生させる大前提となっていたのである。

そんなヨーロッパ文化拡散の中でも最も古く典型的なものがキリスト教である。ケニアの事例におけるキリスト教改宗者は、改宗の結果、原住民の文化にはもはや適応できなくなるが、伝道のヨーロッパ集団の中に十分にコミットできるわけでもないマージナル・マンとなる[Ibid.: 61]。文化拡散によるマージナル・マンは改宗者に限らない。植民地政府や植民者のもたらした西洋的エートスはインドの伝統的なリズムを狂わせ、自由や自治政府といった英国的思想は若者の心を揺るがし、英語教育はヒンズー・システムに混乱をもたらした―西洋化したオリエンタル―のである[Ibid.: 66-67]。

西洋化としてのグローバリゼーションは、欧州内での文化間葛藤をも引き起こす。中世の欧州地図が崩壊し、新たに出現した政治形態は、東西ヨーロッパにタイム・ラグを生み出したが、その結果、幾多もの侵入と支配によって刻まれた歴史的記憶は、複雑に交差する文化圏の存在を露わにした。そのような複数の文化圏構図とは相容れない形で近代国家は生み出されたのである。オーストリア人の父とチェコ人の母をもつヒトラーの体験も例外ではなかった[Ibid.: 75]。

これまでみてきたストーンクウィストの議論は全て、移動、混血、文化拡散、文化葛藤といった社会的側面に焦点を合わせたものであったが、以下では、マージナル・マンのライフサイクル論を検討する。

ストーンクィストはマージナル・マンのライフ・サイクルを三段階に分けている。第一段階では考察の対象となる葛藤はみられない。自我意識の一種である人種意識(race-consciousness)をこの段階ではもたないからである。第二段階において初めて葛藤を意識的に経験する。「例えば、黒人が黒人であることを自覚し、かつ、黒人であるがゆえに受ける他者の態度に自覚的である場合、その人物は人種意識的となる」[Ibid.: 122]とストーンクウィストはいう。意識するのは人種の問題だけではない。この段階においては、優位集団の目に映る、ある種のスティグマの下で劣等感も感じ始めるのである。この第二段階で初めてマージナル・マンが成立する。セルフ概念に対する少しの違和感を感じる危機的状況が訪れるのである。マージナル・マンは、自分自身を見つけ、社会的役割とセルフ概念の再構築をおこなわなければならない。[Ibid.: 121]

葛藤に苛まれるマージナル・マンは、次の第三段階において、三つの選択を迫られる。第一が「適応」である。同化に成功すれば、もはやマージナル・マンではなくなる。第二に、「適応不全」のために完全には同化できない場合、彼(女)はマージナル・マンであり続ける。そして第三に、適応に伴う困難が著しい場合、適応することができず(不適応)、彼(女)は解体してしまう。パークの場合と同様に、同化に失敗することがマージナル・マンにつながる[Ibid.: 123]。しかしここで注意が促される。適応不全は、不適応とは異なり、同化を「試みる」ことの帰結であるという点だ。「マージナル・パーソナリティが創り出されるためには、ある程度の同化が必然的なプレリュードとなる」[Ibid.: 130]のである。不適応は、単に、当該集団に対して部外者となることを立証するに過ぎない。

ストーンクウィストは次のように述べている。

内的葛藤が些細である人々もいる。そのようなケースにおいては「パーソナリティ類型」について述べることはできない。葛藤が張りつめて、かなりの継続性をもつ場合においてのみ、パーソナリティは葛藤に指向する。/(中略)/支配集団に拒絶され、マージナル・マンの極端な類型となるのは、広範囲および親密的にその集団の文化に関わっている者である。[Stonequist, 1937: 139]

つまり、ストーンクウィストの定義するマージナル・マンとは、個人的な問題としてグループ・コンフリクトを経験する者のみをその対象とするものである。そこでは、同化することが規範であり、アイデンティティが固定的であることが自明とされている。マージナル・マンは近代においては、一つの社会病理なのであった。

マージナル・マンのパーソナリティ特質に関しては、「二重の性格(dual personality)」あるいは「二重の意識(double consciousness)」[Ibid.: 145]が挙げられる。この「二重の性格」という概念は、クーリーの「鏡に映った自我(looking-glass-self)」の観点から、より明らかにされる。マージナル・マンの場合、同時に二つの“looking glass”を前にすることになる。それぞれの鏡は、著しく異なった自己イメージを個人に提示するのである。

そして優位集団か劣位集団への帰属が求められる際(ライフ・サイクルの第三段階)に、優越感か劣等感のいずれを選択するかの瞬間を迎える。優位集団への接近を試みて、成員資格が承認された場合、マージナル・マンの葛藤は幕を閉じる。しかし劣位集団への帰属を選択した場合、マージナル・マンはその集団のリーダーとなる。リーダーシップは、ナショナリズムや人種運動の形態をとる。敵対する支配集団に拒絶された際の反応としては、この選択(戦闘的ナショナリスト)が最も自然なものとなる[Ibid.: 160]。

その他の選択肢としては、改革者や教師などの「仲裁者(intermediary role)」が考えられる(ストーンクウィストはここで、福沢諭吉アーウィン・ベールズ、ブッカー・ワシントンらの文化・教育的貢献を指摘している)[Ibid.: 176]。つまり、マージナル・マンが不幸で不運な人間であるという観念は、全体の事実を誤認するものなのである。ここに、マージナル・マンのコスモポリタニズムが成立する。客観性や自由な思考がストレンジャーの特徴として挙げられていることは、ジンメルのところで既に触れた。ジンメルは、ストレンジャーの役割と心理を分析したわけだが、ストーンクウィストは、ストレンジャーとマージナル・マンの違いを次のように述べている。「ストレンジャーの仲裁的役割が、行商人に典型的に見られる商業的関係だとすれば、マージナル・マンの仲裁的役割とは、文化的関係に関わるものである」[Ibid.: 178]。ストーンクウィストはさらに、マージナル・マンの仲裁的役割を、根無し草としてのデラシネコスモポリタンとも区別している*5

同化を遂行すればマージナル・マンの葛藤はなくなるはずだが、実際はそれほど容易なことではない。同化が困難な場合は、支配集団の成員としての「パッシング」形態が導入される。パッシングという現象は、通常、名前の変更によってなされる。ユダヤ移民の第一世代では、アイザック、ベンジャミン、アブラハムといった名前が引き続き使用されることもあるが、第二世代以降では、聖書的色彩の強いそのような名前は理想とされない。新しいホームランドに完全に同化することは困難でも、ある程度の適応を自己呈示しなければならない。そのような「マージナル・マンの(新たなホームランドとの)関係は、社会的というよりは、むしろ共生的(symbiotic)あるいは経済的なものとなる」[Ibid.: 184]。

そのようなマージナル・マンも、似たような境遇の人間が大量に生まれ、一つの集団を構成するようになると、その集団自体がマージナル・マンの帰属集団となり、そこには一つの文化が生まれ、マージナル・マンは、もはやマージナル・マンではなくなる。「マージナル・マン理論の社会学的意義」と題する最終章において、ストーンクウィストは、A.ゴールデンワイザーの「文化領域(cultural areas)」と「マージナル領域(marginal area)」を援用し、独自のマージナル・エリア論を展開する。タマスの「状況の定義」に従うならば、マージナル・マンにとっての共有された文化が十全たる一つの文化であるということが承認された場合、このマージナル・カルチュアはマージナル・カルチュアではなくなる。つまり、この議論を展開すること自体、一つの成果となるにも関わらず、もう一方で、自身の理論構築を根底から覆してしまうのである。ストーンクウィストは、かろうじて、「そのようなマージナル・エリアでは文化的葛藤は起こらないこともあるが、もし起きた場合にはマージナル・マンになる」[Ibid.: 1937: 213]として矛盾を切り抜けてはいるものの、マージナル・マンとマージナル・カルチュアの関係に関してのさらなる議論はなされていない。マージナル・カルチュアは、その後、M.ゴールドバーグによって考察され、マージナル・マン理論そのものの検証がなされることとなる。

(4) その後の展開

パークとストーンクウィストによって議論されたマージナル・マン概念も、それ以降は、表舞台に登場することは少なくなった。この事実の背景としては、次の四つのことが考えられる。まず第一に、マージナル・マンが、近接のストレンジャー議論の中で語られるか、あるいは、ストレンジャー概念と置換可能(当然これは正しい解釈ではない)なものとして、ストレンジャーに花を持たせる役割に甘んじてしまったことが指摘されよう。ジンメルは、一社会におけるストレンジャーの役割についての考察をおこなっているが、それは、個人と社会の関係を分析するための一つの戦略であり、そのため、コスモポリタニズムが前面に主張されていた。心理的マージナリティに関しても多少は言及されているが、それは主たる関心ではなかった。ジンメルストレンジャーは、その意味において、次章で取り上げる、シュッツのストレンジャーに近いものである。

教育プログラムの一環としてのマルチカルチュラリズムの分野においては、現在でも、ストレンジャーを語らずして、マージナル・マンが「理想的な」モデルとして導入されることがある。この場合、マージナル・マンは一つの理念型として捉えられる*6

しかし社会学的な意義としては、諸個人と社会の関係に焦点を合わせたストレンジャーの方がより議論されることが多い。社会学の領域においては、マージナル・マンはストレンジャーと同義で用いられるか、あるいは、ストレンジャーの否定的なコノテーションを付与されることとなる。

マージナル・マン理論が衰退した背景の二つ目としては、移民の急激な減少によって、マージナル・マン理論の展開を促すような現実の刺激が相対的に少なくなった、という事実を反映していることも考えられる[折原、1969: 62]。1920年代のアメリカはまさに〈黄金の20年代〉といわれる繁栄時代を迎えていた。1921年にハーディングが第29代大統領就任した当初、前年からの恐慌のあおりをうけ、国民所得は20パーセントの減少を示し、失業者は500万人を数えた。しかしこの恐慌は翌22年に終わりを告げ、〈未曾有の〉そして〈永遠〉とうたわれる繁栄時代の扉が開かれることとなるのである。アメリカ資本主義は第一次世界大戦を経て、世界資本主義の王座についた。安定・保守、そして反動への志向は国外のみならず、国内にも向けられた。その象徴が1924年5月26日制定の1924年民法である。この新移民法の制定により、アメリカの〈移民の国〉〈機会の国〉としての門戸は、わずかの隙間を残しただけで固く閉ざされたのである。移民制限の要求は〈新移民〉の大量流入に直面した19世紀末から顕著になっていたが、もっぱらそれは質の面からの制限であり、絶対量を制限する要求は1910年代から強くなっていた。しかも大戦中の偏狭な国粋主義・反独・反共の波にのって、ついに移民政策の一大転機を生み出すこととなった[清水、1969: 264-282]。制限立法の影響を受けたのは移民だけではない。フォーマルおよびインフォーマルな措置によって、ムラトーの数も減少したのである[折原、ibid.]。

マージナル・マンの定義が不明確であったという点は、この概念が、完成された理論として継承されなかった第三の理由として挙げられる。マージナリティは、とかく、精緻な概念化や定義そのものが困難な用語である。この概念自体が、次章でも取り上げる「周辺」と同様に、境界づけられた類型に意義を申し立てる意味合いが非常に強いため、それ自体を明確に定義し類型化することで、自己矛盾を引き起こす可能性も高くなる。例えば、ストーンクウィストは、

内的葛藤が些細である人々もいる。そのようなケースにおいては「パーソナリティ類型」について述べることはできない。葛藤が張りつめて、かなりの継続性をもつ場合においてのみ、パーソナリティは葛藤に指向する。[Stonequist, 1937: 139]

と主張し、マージナリティの程度が画一的ではなく、パーソナリティ類型の可能なマージナリティとそうでないものとを明確に区別する一方で、

ある程度の個人的な適応不全はマージナル状況につきもので、/(中略)/最低限、それは内的緊張や不安、孤独感、あるいは、帰属感剥奪といったものからなる。[Stonequist, 1937: 201]

というように、心的マージナリティと状況的マージナリティの識別が曖昧になる。このような混乱は、おそらく、ストーンクウィストがパーソナリティを社会学的な概念として捉えていたことにもよる。しかしストーンクウィストは、パーソナリティに与える諸条件を過剰に強調しすぎて、それらが生涯に渡って深刻なものとなる、という印象を「マージナリティ」という概念に内包させてしまった。

パークやストーンクウィストにおいては、マージナル状況(marginal situation)とマージナル・パーソナリティの関係が曖昧で説得力の欠けるものとなる。ストーンクウィストは、「マージナル・マン」という概念に、「マージナルな状況にいること」と、「マージナルなパーソナリティを有していること」という全く異なった問題を包含させてしまった。ディッキー=クラークは、このような混乱を避けるために、この両者を峻別することを提唱している[Dickie-Clark, 1966: 10]。マージナル・マン概念の定義が不明確な点は、具体的な事例、実証的なデータが欠如していることからも指摘されよう。

そして、第四の原因としては、マージナル・マンそのものの存在の是非をめぐるものである。既に指摘した状況とパーソナリティの曖昧さとも関連することだが、マージナルな状況という十全たる「状況」(それが物理的なものであれ文化的なものであれ)が存在するということは、それが十全たる状況であり続ける限りにおいて、もはやマージナルではなくなる、つまり、決して文化が解体した地域ではない、ということである。この点を最初に指摘したのはM.ゴールドバーグであった。ゴールドバーグは、「2つの異なる文化の狭間に生きるものも、似たような状態にある複数の他者と、その意識を共有することによって(つまりマージナル・カルチュアがノン・マージナル・カルチュアになるから)マージナル・マンではなくなる」として、パークやストーンクィストのマージナル・マン論を批判している[Goldberg, 1941: 52-58]。マージナル・マン理論に対するその後の批判は、通常、マージナル・カルチュアの正当性をめぐるものとなる。

以上のことを背景として、マージナル・マン理論は衰退の一途を辿ることとなる。しかしながら、パークやストーンクウィストらが提唱したそのままの枠組みにおいて「マージナル・マン」をグローバリゼーション分析のために甦らせることは有益ではないとしても、「マージナル」、「マージナリティ」、「マージナリゼーション」と変形させた上で、本論独自のフレームのためのツールとして動員させることは、まだまだ、有効であると思われる。そのために、本論では、マージナル・マン理論の論点を次の三つに区別したものとして解釈してみたい。

(5) 三つの論点

社会心理学は、これまで、セルフの社会性に関する洞察を発展させることによって、生物・心理学的なエゴ・セルフ解釈からの脱却を図ってきた。それらは、例えば、C.H.クーリーの「鏡に映った自己(looking-glass self)」、G.H.ミードの「一般化された他者(generalized other)」、R.K.マートンらの「準拠集団(reference group)」によって考察された。これらの概念に共通することは、人間の経験的セルフ像、セルフの心に存在する他者像、および、他者の心に映ったセルフ像を問題にしていることである。この点を前提とするならば、「二つの異なる民族の文化生活と伝統の中に、両者に緊密に関与しつつ生きている文化的雑種であり、かれの過去や伝統と縁を切ることが許されていても、自ら進んでそうしようとはせず、新たに自分の場所を見つけなければならない新しい社会の中にも、人種的偏見のために十全には受け容れられず、また、決して完全には浸透し合わず、融合もしない二つの文化ないし二つの社会のマージンに佇む人間」が興味の対象となるのは驚くことでもない。パークやストーンクウィストの描いた「マージナル・マン」の状況に関する洞察は、一部その特徴を共有するジンメルの「ストレンジャー」、あるいは、近接概念として、「デラシネ」や「コスモポリタン」、そしてK.マンハイムの「インテリゲンツィア」などにも含まれている。しかし本論はそれらの学説史的検討を目的としているわけではないので、これ以上は立ち入ることはせず、「マージナル・マン」の問題を、グローバリゼーションの解釈に必要な限りにおいて、次の三つのテーマに分けて論じていきたい。

マージナル・マン理論の論点で本論の関心となるのは、アイデンティティの問題、文化の問題、そして移動の問題である。マージナリティは、既に述べたように、心理的マージナリティと状況的マージナリティに分けて議論せねばならない。その際に、これら三つのテーマがどのように関わるかも明確にしなければならないであろう。ゴールドバーグ以降のマージナル・マン批判は、マージナル状況にある人間は自動的にマージナルなパーソナリティを示す、というナイーヴな発想を不適切であると批判することから始まり、この二つの関係を徹底的に精緻化することに労力を費やしてきた。

しかし、二つのマージナリティがどのように関わるかを議論することは、各々のマージナリティが個別に十分議論し尽くされることを前提とするものであろう。加えて、心理的マージナリティの対極にあるものを状況的マージナリティとした場合、状況的マージナリティを、文化の定義を蔑ろにしたままで即座に文化的マージナリティと設定してしまうことにも問題がつきまとう。ストーンクウィストは、異質的な文化の境界に佇みながらもその両者に十全には帰属できない人間をマージナル・マンと命名したが、異質的とは何か、文化とは何か、帰属とは何か、といった問題には立ち入った議論をおこなってはいない。マージナルな文化を論じるということは、何か、「文化というようなもの」が実質的に存在することが大前提となっているはずである。つまり、社会学創設以来の大問題である「社会とは何か」ということと、「文化とは何か」ということの、一見、基本的で本質的な議論を抜きにしては、マージナル・マンの問題を検証することはおろか、考察することすらその意義が問われるのであろう。本論では、以上のことを肝に銘じながら、第4章の「文化とマージナリゼーション」において、この問題を考察していきたい。

マージナル・マン理論は、文化変容とそれが及ぼす心理的問題を一つの社会病理として描いていたことは既に述べた通りであるが、そもそも、心理的マージナリティとしてのパーソナリティとは、現代に流通する概念に置き換えれば「アイデンティティ」の問題であったのではなかろうか。例えば、ストーンクウィストは次のように述べる。

例えば、黒人が黒人であることを自覚し、かつ、黒人であるがゆえに受ける他者の態度に自覚的である場合、その人物は人種意識的となる。彼のイマジネーションにおいては、自分が所属する集団と他の集団の両方が対象として浮上する。[Stonequist, 1937: 122]

すなわち、自分の世界に自分が存在していることを承認するには、他者からの認知を必要とするわけだが、この「自己の意識」と「他者の認知」はアイデンティティ定義にとって基底的な要素となっている。次章で詳しく取り上げるが、ここでストーンクウィストが示唆するアイデンティティ問題は、地位や役割に関わる「社会的アイデンティティ」に限定されたものである。パーソナリティの問題とされていたストーンクウィストの議論も、セルフのアイデンティティがそのテーマであったことは、先の概要や次章におけるアイデンティティ定義からも明らかとなろう。本論は、マージナル・マン理論のおける「心理的マージナリティ」を、アイデンティティの問題として読み直し、グローバリゼーションに即して「アイデンティティ論」を整理する。

文化の問題およびアイデンティティの問題としてのマージナリティに関しては、その区別の曖昧性も含めて、比較的、意義のある検証がなされてきた(勿論、十分に満足のゆく議論がなされてきたわけではないが)。この両者に比べたら、「移動」の問題は、マージナル・マン理論においても、決して、一義的なものとして正面から取り上げられたものではなかった。

文化は世代から世代に伝達され蓄積されるのみならず、集団から集団へと拡散もする。そしてこの伝達と拡散は互いに影響し合う。一つの場所で新しく生まれたものは、他の場所で再生される。それらは同時に発生することもあれば、文化拡散によって広められることもある。文化拡散は新たな創造力をも促す。このような時代背景は、まさに文化拡散が、急速なスピードで地球を包み込むであろう未来(現代)の幕開けを告げるヘラルドとなる。パークやストーンクウィストの時代においても既に、大規模なコミュニケーションと移動によって、多くの人々が広範囲に渡る文化に関与することとなったことが指摘されている[Stonequist, 1937: 178]。商工業、学術交流、ツーリズムなどによって、諸個人はより多文化的(multi-cultural)になってきたのである。ただ、文化拡散とコンタクトが生み出した一つの社会病理が、マージナル・マンであったに過ぎない。

そのような文化の変動を遠距離に結合するための使者となったのが、コミュニケーションと輸送手段の発達であろう。つまり、移動という現象は、現在においても過去においても、文化変動の軌跡を振り返るための有効な変数となるのである。孤立した社会集団が物理的な環境の変化に対して直接的に反応する以外に、突然、生活様式を変えることはまずない。異質な者との親密なコンタクトは、競争や葛藤、さらには継続的な再適応を迫られることとなろう。パークの「人種関係周期」である。移動は、それゆえ、文化および人間をプロセスの渦中に巻き込むのである。

文化拡散、文化変動、コンタクトが、マージナリティを生み出すための主要な原動力となるならば、「移動」はマージナル・マン理論の「影のテーマ」であったと言うことも可能であろう。マージナル・マン理論においては直接的にはスポットライトを浴びなかった「移動」を考察の対象にし、その上でマージナリティを捉え返すことは有意義であると思われる。本論では第3章で「移動」の問題を、アイデンティティの問題とも関わらせながら、マージナリゼーションとグローバリゼーションに即して考察していく。

*1:例えば、Schutz, 1964=1991: 137-142; Tuan, 1974=1992: 113-121.; Lofland, 1985: 177 等を参照。
トゥアンは次のようにいう。
 「来訪者と住民は、同じ環境をまったく違う側面から見る。安定した伝統的な社会では、来訪者や短期滞在者は、全人口のごく一部でしかない。そこでは、環境に対する彼らの見方は、おそらく何の重要性も持たないであろう。しかしわれわれの流動的な社会では、通過者たちがもつつかの間の印象でも、無視することはできない。一般的に言って、来訪者(特に旅行者)だけが、視点というものをもっているのではないだろうか。彼の知覚は、しばしば、絵を構成するために目を用いることからなりたっている。対照的に住民は、自分たちの環境全体に浸っているために、そこからおのずと複雑な態度を取るのだ。来訪者の視点は単純であり、簡単に述べられる。また、目新しさに直面して、自分自身を表現しようとする誘惑にかられることもあるかもしれない。他方、住民にとっては、自分の複雑な態度を表現するのは困難であり、それは、行動や地域の伝統や伝承や神話を通して、間接的に表現されるのだ」[Tuan, ibid.: 113-114]。

*2:『人種と文化(Race and Culture: The Collected Papers of Robert Ezra Park)』は、二十九部からなるパークの論文集である。

*3:折原訳, 1969: 59. を参照

*4:ストーンクウィストは、その事例として、「成り上がり者(parvenu)」、「落伍者(déclassé)」、農村から都市へ移住してくる「デラシネ」―以前の自分に関する何かを失ったものの、安定した新たな自分を獲得できない者、社会進出する女性などを挙げている。[Ibid.: 7]

*5:ストーンクウィストは、仲裁的役割を担う者として、国家意識とそれがもたらす諸々の価値観を放棄する「世界市民」は相応しくないとして、真の国際主義者とは区別し、「自己理解によって、他者理解は促進される」という。[Ibid.: 179]

*6:例えば、杉本[1993: 86-97]は、積極的な楽しみと快適さを伴った冒険的モデルとしてマージナル・マンを捉え、物理的移動を伴わない「在郷越境主義」を唱えている。ある種の「無国籍人」の地点が越境人間の目指す場所となる、と杉本はいう。似たような議論として他にも、[Seelye, 1996: 83]などがある。