葡萄酒色の海(Wine-Dark Sea)

ホメロス叙事詩オデュッセイア』は多くの読者を魅了してきました。物語であると同時に詩的に完成された作品ですが、その解釈をめぐって様々な意見があることで知られるもののうちの1つが「葡萄酒色の海」という描写です。

眼光輝くアテネは一行のために順風を起こし、激しい西風が、葡萄酒色の海の面を、音を立てて吹き渡る。

ホメロスはここでエーゲ海を「葡萄酒色」と表現しています。なぜ海が「葡萄酒色」なのかに関してはいろいろな解釈があります。昔はエーゲ海は赤かったとか、昔のワインは青かったとか、夕焼けの空を反映していたとか、当時は赤を表す言葉も概念もなかったとか、戦争によって血に染まった海であるとか、はたまたホメロス色盲だったとか、とにかく諸説あります。しかし、このような議論、何か間違っていないでしょうか。
 「~のようなワイン(葡萄酒)」というようにワイン「を」形容する表現はよく目にします。でも「ワイン(葡萄酒)のような~」というようにワイン「で」形容するものはあまり無いと思います。せいぜいワインのような音色とか、熟成した葡萄酒のようなキスの味といったところでしょうか。その他に、ワイン「で」形容するものにはどんなものがあるのでしょうか。文豪エミール・ゾラの小説『居酒屋』に、クポーという屋根職人の男を描写する場面があります。

その酔いしれた顔は、猿のような顎とともに、黒くなり、青葡萄酒のような色合になった。

「青葡萄酒」という描写を見ると、どうやらホメロスは間違っていなかったのかと判断せざるを得なくなります。これだけかと思いきや、他にもヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』に以下のような記述があります。

マトロート(魚料理)にジブロット(肉料理)という名だけで知られてるふたりの女中が、ユシュルー上さんを助けて、青葡萄酒のびんや、瀬戸の皿に入れて空腹な客に出す種々な薄ソップなどを、テーブルの上に並べた。

文学作品にここまで「青い葡萄酒」の存在が示されると、昔のワインは青かったという説に合点承知してホメロスの「葡萄酒色の海」を解釈したいところですが、そうとはいかないのが文学の面白いところではないでしょうか。梶井基次郎の『海・断片』という作品に海を描写する場面があるのです。

酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。

梶井が見た伊豆の海は赤かったのかとか、梶井が飲んでいたのは青い葡萄酒だったのかとか、梶井も盲目だったのかといった解釈は聞いたことがありません。おそらくここで梶井が言うところの葡萄酒は青色ではないでしょうし、海が赤かったというわけでもないと思います。では、なぜ梶井は海を「葡萄酒のような」と喩えたのでしょうか。

梶井基次郎の熱狂的ファンの知人いわく、「実景の海は生命を生み出す光に満ちた荒々しい海.....内面ではその海に対する恐れのようなものもある.....梶井にとって葡萄酒は血であり、死とともに生を象徴するものとしてあったのかも知れません」と。なるほど、わたしたちは梶井が見た海の色や梶井が飲んだ葡萄酒の色に囚われすぎていたのかもしれません。そうではなく、もっと梶井の内面に寄り添うのであれば、梶井が葡萄酒と海を関連づけたその内面に忠実であるべきなのかもしれません。

アメリカの作曲家ジョン・マッキーが作った交響曲「ワイン・ダーク・シー」というのがあります。『オデュッセイア』で描写される「葡萄酒色の海」の英語訳です。聴いてみると、なんとも力強さみたいなものがあり、おそらくマッキーは力強さというか荒々しさのようなものに葡萄酒色の海を重ね合わせたのかなと考えるに至りました。そう考えると、ホメロスも梶井と同様に海の表情を描写するのに葡萄酒を採用したのかなと思えてなりません。

さらには、日本語訳だと「葡萄酒色」となってますが、英語だと「ワイン・ダーク」となっています。「ワインのような濃さ」とでもいうのでしょうか。原典のギリシア語でも特に「色」とは言ってないようです。ホメロスは別に「色」を問題にしていたのではなく、海の「表情」を表現したかったのではないかなと思います。そうすると、ワインで喩えるというのも納得がいくものではないでしょうか。

マッキーがモチーフとして『オデュッセイア』を選んだのは、この叙事詩の中に音楽に通じる芸術性を見出したからなのかもしれません。『オデュッセイア』と『ワインダーク・シー』は、内面を表出する手段としての言葉と音が見事に交錯し合うという魅力を与えてくれます。そして、芸術を総体的かつ相対的にとらえることの意義を見出す切っ掛けをわたしたちに与えてくれるものなのかもしれません。