差別意識と差別行為の因果関係

2017年10月27日のワールドシリーズ第3戦でカブスダルビッシュ投手からホームランを放ったアストロズのグリエル選手がベンチで両目を指でつり上げるポーズをして差別表現だとして非難されました。その後、グリエル選手は謝罪したものの5試合出場停止処分を科されました。アジア人に対する人種差別的ジェスチャーとして知られる「つり目」ですが、実はアメリカではそれほど見られるものではないです。これはむしろラテンアメリカでよく目にする光景なのです。キューバ出身のグリエル選手だからこその話なのです。ボクもラテンアメリカで「つり目」ポーズに何度も遭遇しました。

しかしこの「つり目」はラテンアメリカでは特に東洋人に対する人種差別的な意識でなされるものではありません。むしろ親しみを込めてなされることが多いです。子供たちが無邪気に「つり目」をしながら東洋人に駆け寄ってくる光景はラテンアメリカではそれほど珍しいものではありません。グリエル選手も東洋人差別を意識していたのではないようです。非難されたときグリエル選手は「知らなかった、差別意識はなかった」とコメントしています。差別意識があったとしたら、最初からあんなポーズは取らなかったのではないでしょうか。

どの人種・性別・民族・宗教等に対しても差別表現や差別蔑称が様々に存在します。そしてその程度も非常に不快なものから冗談で済まされる軽いものまで幅広いようです。それゆえ、一律に差別だと決めつけて制裁を加えるというのはいかがなものかとも思われます。不快なものとそうでないものの境界線はどこにあるのでしょうか。

確かに表現の自由というのは絶対的なものではありません。表出される行為が他人に見られたり聞かれたりする限りにおいて、表現の自由には制限が課されます。相手がどのようにその行為を受容するかというのが重要になってきます。その点、思想信仰の自由は絶対的なものです。表出されて他人に見られたり聞かれたりすることがない限りにおいて、人は何を考え何を信じても自由です。意識で留まるか行為に現れるか、そこが大きな違いでしょう。

では行為として表出される差別表現はすべて非難に値するかというと、そうでもありません。これは差別表現に限ったことではなく、わたしたちのすべての行為に当てはまることですが、それが「意図的」になされたものか「過失」によってなされたものか、はたまた「無意識」になされたものかによっても非難の程度が異なり、それは意図的になされる殺人と過って死なせてしまった過失致死の違いといった具合に法律にも体現されています。どういうつもりで行為がなされたかは非常に重要なものです。言い換えれば、差別意識と差別行為の間に因果関係があるか否かが判断の要になるということです。

差別的な表現や蔑称は時代とともに解釈が異なることもあります。かつては普通に発することができた言葉が今では放送禁止用語となったり、次第に日常的にも用いることができなくなったものも多々あります。

また、まったく差別的だとは解釈されていない日常的な表現の中にも一部の人を不快にさせるものもあります。最近すっかり定着したご当地自慢やお国自慢ですが、自分の出身地を過度に自慢するのは良いとして、その自慢を際立たせるために他者の出身地を過度に侮蔑するのはいかがなものでしょう。他人が住んでいる街や故郷を平気で侮辱する人たちがいます。埼玉を揶揄した造語である「ダ埼玉」は今ではすっかり定着して差別的なニュアンスが薄れつつありますが、それはおそらく都市化によって埼玉県人に余裕ができたことと関係があるのかもしれません。それでもやはり不快に思う人もいることでしょう。

そういった出身地侮蔑は都道府県レベルではなく市町村レベルでなされることも多いようです。最も有名なのが京都と東京でしょうか。碁盤の目以外は京都ではないとか、23区以外は東京ではないと言う人をよく見かけます。ボクが住んでいる神奈川県でも、それぞれ隣り合った鎌倉市と逗子市と横須賀市の間には微妙な距離感があるようです。スケールがあまりにも小さくて気の毒にさえ感じます。

差別を定義するのは容易ではないようですが、身分・階級・職業・人種・民族・宗教・文化・言語・地域・性・病気といった個人の属性を根拠に他人を貶めるような言動は、それが意識の中にあるうちは、たとえそれが間違った偏見であったとしても許されるものではありますが、ひとたび言動として表出されると他者危害が生じうることをきちんと認識しなければならないのでしょう。出身地は自分の能力ではどうにもできない属性であるゆえ、それを根拠に侮蔑されてもただただ不思議な感覚が宿るのみです。

ボクはあえて差別が良いとか悪いとか主張するつもりはありません。ただ、差別を否定するのであればそれをとことん貫いていただきたいものです。「つり目」は差別的表現だから悪くて「出身地侮蔑」は差別的表現ではないから良いと言える根拠はどこにあるのでしょうか。ボクに言わせれば両者に大差はありません。差別意識は無かったけど差別行為と解釈されてしまったグリエル選手のケースと、差別意識があるけど差別行為と解釈されないお国自慢。意識と行為に因果関係が成立してしまうことの何と罪深いことでしょうか。