気象予報士の自由化

天気予報は当たることもあれば外れることもあります。朝の天気予報を信じて傘を持たずに出かけて後で悔しい思いをしたことありませんか。当たるも八卦当たらぬも八卦と自分に言い聞かせるという意味において、天気予報は占いのようなものです。しかし、わたしたちは天気予報が当たっても過度に喜ぶことはないし、当たったからといって信頼度が増したり揺らいだりするわけでもありません。この点、当たったときの信頼度が増したり揺らいだりする占いや、毎回のように一喜一憂する競馬予想とは大きく異なります。さらに、天気予報には占いや競馬予想のような複数の選択肢が無いという点で大きな違いがあると言えるでしょう。

どのニュースやワイドショーでも天気予報のコーナーがあって、気象予報士が分かりやすく明日の天気を伝えてくれますが、一部タレント化した人も含め、どの気象予報士の言うことを聞いても明日の天気は全て同じものです。せっかく気象予報士資格を持っているのに、彼らは気象庁が発表する明日の天気をわたしたちに伝えなければならないのです。気象予報士は気象予報が仕事のはずですが、実はそうではありません。介護士は介護をします。弁護士は弁護します。戦士は戦います。では気象予報士は「予報」するのでしょうか。いいえ、しません。厳密に言うと、彼らは気象庁発表の気象予報をそのまま垂れ流し的に「伝達」するだけです。もしかしたら中には自分の予想は違うんだけどなあと思っている予報士もいるかもしれません。

去年の台風19号気象庁発表のものと在日米軍発表のものとでは微妙に予想進路が異なっていました。今ではその違いも微々たるものですが、かつては米軍発表予報の方が信頼度が高かったです。あくまで「予報」であるのだから、わたしたちが複数の選択肢を得るためにも、ここは気象予報士を自由化してはどうだろうかと提案したいと思います。

気象予報士が自由化されれば、当たる予報士は需要が高まって番組に引っ張りだことなるでしょうし、外れる予報士は画面から姿を消すこととなるのでしょう。そのうち、競馬予想のように「本命は晴れのち曇りで強風、大穴で竜巻あり」という天気予報も出現して見応えのある番組構成も予想されることでしょう。街頭には「新宿の母」のような行列のできる気象予報士が出現して「3時以降の外出は控えなさい」といったピンポイントな予報を繰り広げてくれるかもしれません。

と、ここまで空想を披露したにもかかわらず、気象予報士の現実化は大変に難しいのです。そこには法律という大きな壁が立ちはだかっているからなのです。気象業務法というのがあるのですが、そもそも気象予報士が予報するところの「気象」とは、①大気の諸現象としての「気象」、②地震及び火山現象並びに気象に密接に関連する地面及び地中の諸現象としての「地象」、③気象又は地震に密接に関連する陸水及び海洋の諸現象としての「水象」、上記全てを含んだものをいいます。そして、気象庁以外の者が気象、地象、津波、高潮、波浪又は洪水の予報の業務を行おうとする場合は、気象庁長官の許可を受けなければならないことになっています(気象業務法第17条)。

言い方を変えると、気象庁長官の許可を受ければ気象庁以外の者も気象、地象、津波、高潮、波浪又は洪水の予報を行うことができるのです。とは言っても、気象庁長官の許可を受けるのは並大抵のことではありません。占いや競馬予想と異なり、気象予報には人の命がかかるからなのです。晴れか曇りか雨か雪か程度の予報であれば人命に影響はないのでしょうが、上述のように気象予報業務でいうところの「気象」には、単に「気象」のみならず「地象」と「水象」も含まれているから、現時点では気象予報士が行う予報は人命に影響力のあるものとなっているのです。

気象庁以外が許可無く予報することを国が禁じているのは、人命に影響力があったり人々をパニックに導いたりする可能性のある予報は避けなければならないと考えているからなのでしょうか。それだけではないとボクは思います。気象予報には信頼度が担保されているからだと思います。神社がどんなおみくじを発行しようが、ノストラダムスが人類滅亡を大予言しようが、予想屋万馬券を予想しようが、どれもそれほどの信頼度が担保されていません。だから、おみくじで大凶が出ても、人類滅亡危機と言われても、大穴万馬券が予想されても、わたしたちはパニックにはならないのです。しかし、わたしたちは気象予報を信じているのです。

ではなぜわたしたちは気象予報を信じるのか。気象業務法は気象観測を「自然科学的方法による現象の観察及び測定」、気象予報を「観測の成果に基づく現象の予想の発表」と定義づけています。現象の観察という意味においては、何千年もの知識と経験を集約した占いや、脚質や枠順や過去の着順といったデータに裏打ちされた競馬予想も「観測の成果に基づく現象の予想の発表」であることに何ら変わりはありません。唯一の違いは、それが「自然科学的方法」によるものであるかどうかです。

ただし、自然科学的方法が決して一枚岩でないことは3月15日付の記事においても述べた通りです。それでもわたしたちは自然科学的方法の採用という事実を、わざわざ気象業務法の条文を確かめるまでもなく確信しているのです。自然科学という大きな関門をクリアするのは決して簡単なことではないでしょうから、せめて人命に影響力のある「地象」と「水象」を除いた「気象」のみの予報くらいは自由化されたとしても大損することも罰が当たることもないとは思うのですが、やはり科学的でないとダメなのでしょうか.....。