学問の不自由

憲法第23条は「学問の自由は、これを保障する」と規定しています。では「学問の自由」というときの「学問」とは何なのでしょうか。これを考える前に、まずは大学教員(これには教授や准教授と同様に講師も含まれる)と小中高教員の違いを明らかにしておきましょう。小中高教員になるためには教職免許が要請されますが、大学教員には教職免許のようなものを含む一切の資格が要請されません。大学教員になるためには、研究者としての実績を積むことが要請されますが、その実績は質というよりもむしろ量が求められ、一定の条件をクリアすることが求められています。

さて、小中高教員と大学教員にはもう1つ大きな違いがあります。小中高教員は「教育」に携わるために免許を必要とし、その免許を有した者が「教育」に従事することとなります。一方、大学教員は「教育」に携わるために免許を必要とせずして「教育」に従事し、これに加えて、大学教員は特に何の資格も必要とせず権利として高い志を持った「研究」に従事することとなります。免許を持った小中高教員が「教育」のみに従事するのに対し、免許を持たない大学教員は「教育」と「研究」の2つに従事するのです。

ここで憲法第23条「学問の自由」に話を戻しましょう。もともとドイツにおいて大学の成立とともに主張されるようになったのが「学問の自由」という考え方です。まだ市民的自由が保障されていなかった当時、学問研究の自由を特権として大学教授に認めようという主張がなされるようになりました。日本国憲法が諸外国憲法の影響を受けていることから、当然にして「学問の自由」の「学問」とは「学問研究」を指すものと考えて良いです。つまり「学問の自由」は大学教員の2つの職である「研究」と「教育」のうち「研究」について保障したものであると額面通りに解釈することができます。

それでは、もう1つの職である「教育」は憲法によって保障されていないのでしょうか。これについては憲法上の明記が無いので法解釈に委ねられることになるようです。最高裁によると、「憲法の保障する学問の自由は、単に学問研究の自由ばかりでなく、その結果を教授する自由をも含むと解される」、すなわち「学問の自由」は「教育の自由」を含むとなっています。もっとも、「教育」の自由に関する解釈には賛否両論あるようですが、とりあえず現在のところ「研究」と「教育」の両方が保障されていると考えて良いのでしょう。

こういった憲法上の保障の話も参考にしながら、大学教員の職としての「研究」と「教育」を次に考えてみましょう。小中高教員には「教育」に従事する対価として給料が支払われます。大学教員はどうでしょうか。大学教員には「教育」と「研究」の2つに従事する対価として給料が支払われます。

しかし問題はもう少し複雑です。小中高の生徒およびその保護者らは「教育」の対価として学費を納めます。大学生およびその保護者らはどうでしょうか。彼らは大学で享受する「教育」に対して学費を納めるのであって、「研究」に対して学費を納めているわけではありません。どうかこのお金で私たちを教育してくださいということであって、どうかこのお金で研究を頑張ってくださいということではありません。憲法の名宛て人が国家権力であることから当然にして、大学生およびその保護者らとの関係においては、「教育」の義務こそ発生すれども「研究」の自由は当然に発生するものではありません。つまり、大学教員は学生とその保護者らとの関係においては「学問の自由」や「研究の自由」を主張することはできないのです。

大学教員は「研究」と「教育」という2つの職に従事しなければなりませんが、「研究」に関していえば、その基本的人権面における「研究」の自由は国家権力に対して、そして労働対価面においては大学側に対してのみ主張できるに過ぎないのであります。
 大学教員としてみれば、自分は「研究」と「教育」の2つに従事しているのであると主張されるのでしょうが、学生およびその保護者らからしてみれば、大学教員に求められるのは「教育」のみです。多くの大学教員にとっては「研究」こそが本職であり、「教育」は二の次なのでしょう。そもそも、「教育」に関してはいかなる免許も資格も無いわけですから、プロの教育者ではありません。

勘違いしてもらっては困るのですが、ボクはここで小中高教員がプロの教育者であることを格段に主張しているわけではありません。学問に王道が無いように、教育にも王道が無いというのがボクの考えでありますから。ボクが言いたいのは、大学教員が無資格者として「教育」に向き合わなければならないという理不尽さ、言い換えるならば、学問の不自由さに対して多少の同情を示しているだけです。

このような同情が集まるのは、偏差値が低くてほとんど無試験で入学可能であるために合格者と不合格者の境界線が無い大学、いわゆるボーダーフリー大学の教員ではないでしょうか。最高裁が示した「研究結果を教授する自由」という意味での「教育」とは、研究結果を教育に反映させたものであることを意味するため、かなり高度なリテラシーが要請されますが、そのような要請にボーダーフリー大学の学生が耐えられるかといった問題もあります。「研究」と「教育」の乖離はおそらく上位校においても似たようなものかもしれません。そういった理由からか、「研究教授」と「教育教授」を分ける議論も一部の大学でなされているようです。

学問の自由には「大学の自治」も当然に含まれますが、文科省も絡むことなので財政自治権など無いに等しいのが現実です。大学教員の苦悩を考えると、教育に対する姿勢やアセスメントには情状酌量の余地があってもいいのかもしれません。しかしそれは教員と大学側あるいは国との関係における問題であって、学生およびその保護者らに被害が生じることがあってはいけません。全てを了解したうえでの職務であるならば、やはりここは「教育」を蔑ろにすることは許されないものでしょう。そのことを認識した大学教員がどれくらい存在するのかは分かりませんが、教育リテラシーに関しては志しの高いボーダーフリー状態であるべきだと思います。