それでも時間は平等に与えられている

「時間は全ての人間に平等に与えられている」という名言がありますが、これに異議を唱える人たちもいます。例えば、寿命が40歳の人と80歳の人では与えられている時間は倍も異なるわけだから、時間は平等に与えられていないではないかと。しかし「時間は全ての人間に平等に与えられている」の意味は、1日24時間の人と36時間の人がいるということではなく、全ての人間が1日24時間を割り当てられているということを意味します。他にも次のような異議を唱える人たちがいます。与えられた時間は平等だとしても、問題はその中身だと。機会の平等と結果の平等に似た議論になると思います。機会は平等に与えられなければならないけど、その機会をどのように活用して結果に結びつけるかは本人次第であるように、時間は平等に与えられなければならないけど、その時間をどのように活用して有意義な中身に結びつけるかは本人次第であります。ゆえに、時間の有る無しは本人次第であるということになるのでしょうか。

よく「忙しい」を理由に何かをする時間が無いと言う人たちがいます。ボクも有限なる24時間という1日の時間の中では物理的な限界があることは認めます。確かにボクも素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習する時間はありません。なぜか。それは、素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習することがボクの人生の優先順位的に上位に位置づけられていないからであります。ボクにとって素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習することは、どうでもいいことです。ボクが言いのは、自分にとって大切であるがゆえに優先順位的に上位に位置づけられているものに関しては時間的譲歩はしないということです。大切であるがゆえに優先順位的に上位に位置づけられているのであれば、そこから距離を置いたり後回しにすることはありません。

逆に、距離を置いたり後回しにするということは、それが大切ではないがゆえに優先順位的に上位に位置づけられているわけではないということを示しているのではないでしょうか。ただそれだけのことです。大切なものは1つや2つとは限りません。大切なものは幾つもあります。でも素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習することはボクにとっては大切なことではないから距離を置いて後回しにすらしないということです。ただそれだけのことです。

「時間が無いからできない」と言うからには、自分にとって大切であるがゆえに優先順位的に上位に位置づけられているものの、自分には時間管理の術が分からないという黙過しがたい過失に関しては不問に付しているという隠しがたい事実に向き合う必要があるでしょう。すなわち、素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習するための時間管理の術が自分には無いということを深く認識する必要が生じることでしょう。さもなくば、自分にとっては大切なことではないから距離を置くのだということを明言する必要があるでしょう。すなわち、素振りをしたり神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習することはどうでもいいことだとしっかりと明示する必要が生じることでしょう。

多くの場合、後者、つまりボクの場合で言えば神社参りをしたりメイソンジャーのデザインを考えたりスワヒリ語を学習することは「どうでもいいこと」だと明示することをためらって、もしくはそのこと自体を認識することなく「時間が無いからできない」と述べてしまうものです。意外と多くこの「時間が無い」という万能かつ便利である常套句を枕詞に人は言い訳を紡ぐものであります。なぜ自分はここで「時間が無い」と述べるのかを自省してみると、ご自分の「気づき」に触れることになるまたとないチャンスに巡り会うことができることをお約束しましょう。