主観的ではダメなのでしょうか

数年前のワイドショーにて、和歌山カレー事件裁判の被告である林眞須美死刑囚に対する有罪無罪をめぐる議論の中で、コメンテーターの1人である弁護士の大澤孝征氏が「証人による証言は客観的証拠ですから」と述べていました。1人の証人では有効ではないかもしれないけど、大勢の証人であればその証言は客観的証拠として有効であるということなのでしょうか。正確に言うと、信憑性が高いというだけで、客観的と言えるレベルではないと思うのですが、日本では証言は客観的であると解釈されているようです。

逆に、信憑性が高くても客観的証拠とは言い切れないという解釈もあります。それゆえに、推定無罪という考え方がアメリカでは有効なのではないでしょうか。あのO.J.シンプソンが無罪となったのは、客観的な証拠がなかったからです。                        

客観的な証拠が無ければ無罪と推定せざるを得ないという厳格な手続きが求められるのは、仮に99%有罪の可能性があったとしても1%無罪の可能性が残されている以上は冤罪が生じることもあるからでしょう。つまり人権に関わるからです。

それでは、人権に関わらなければ客観性が反故にされて多少の厳密性を欠いたとして「客観的である」とみなされることが許されるのでしょうか。社会調査で実施されるアンケートを例に考えてみましょう。統計学的有意性を確保できるということから、数多くのデータを回収できるアンケート調査は「科学的」であるとみなされています。ここで「科学的」というのは、「再現性」すなわち他の誰がいつやっても同じような結果が得られるということを意味します。ただ問題は、主観性が完全に排除されると言い切れるかどうかです。アンケートに回答する「人間」が「主観的」に回答することがないと100%言い切れるかどうかです。質問に対して勘違いをしたり見栄を張ったり、あるいは意図的に真実ではない回答をしたとしても、その回答は回収されたら「客観的」なデータとして取り扱われてしまいます。

ピタゴラスの定理万有引力の法則は、それまでに積み上げられてきた科学的な厳密性を前提に成り立っているものです。それゆえにピタゴラスは1足す1が2であることを証明する手段をわざわざ経ないでも三平方の定理を導くことができ、ニュートンはリンゴが100%木から落ちることを証明する手段をわざわざ経ないでも万有引力の法則を天体にも適用することができたのではないでしょうか。このあたりの「厳密さ」の積み重ねという意味において、アンケート調査結果は「客観的」であるとは言い切れないものだと思われます。

そもそも科学者以外の科学者は何故にそれほどまでに「客観的」であることを要請するのでしょうか。マックス・ウェーバーが唱えた「価値自由」という概念があります。価値判断から自由になる、すなわち価値判断から解放される、つまり価値判断を排除することによって「客観的」に物事をとらえることができるという意味です。そうやって自然科学以外の分野の人たちは、自然科学者が自然界の事象や動植物を分析するような方法で人間や社会を「正確に」分析することを目指して、社会科学という分野を築いて社会科学者であることを志したのでしょう。

しかし自然科学者らがモノを見るような眼差しで人間や社会を分析することには限界はないのでしょうか。あるいはそのような窮屈な作法を強いられて自分にブレーキをかけることによって、自分の自由な発想を封じ込めて可能性を潜在的なものにしてしまってもいいものなのでしょうか。

そんな反省からか、客観性ではなく主観性にあえて着眼する研究者も増えています。慶応大学の諏訪正樹教授の「身体を考え、知をデザインする生活」における一人称研究は客観的な外部観測ではなく、主観的な言葉のデータや内部観測を重視する視点です。フィールドに出て他者を観察するということではなく、観察する自分を観察する他者がいて、それをまた観察する自分がいるという認識は、フィールドワークの新たな発見にも活かせるのではないかと感じています。檻の中の動物を観察するような一方向的な視点ではなく、観察者と調査対象者との間のコミュニケーションを前提としているので大変に魅力的です。

「価値自由」という縛りからのこういった解放感を「"価値自由"自由」とでもいうのでしょうか。そういった動きは、これまで「である」と「すべき」を厳密に分けてきた研究分野においても採用されてきているようです。社会はこうある「べき」とか人間はこう「すべき」という価値判断を排して、社会はこう「である」とか人間はこう「である」というスタイルを貫いてきた社会学においても、例えば環境社会学においては実践的な知を目指して政策的な提言にも関与するといった積極的な風潮が見られるようです。

主観的なものに着眼するとは言っても、決して客観的なものを蔑ろにするということではありません。科学者に限らず人は誰でも客観的な態度で社会生活を送っている側面もあるわけですから、わざわざウェーバーが主張するところの客観的態度を否定しているわけではありません。ただ、「客観的な態度」と「客観的な事実」は別であるということを言っているだけです。客観的な態度によって導かれた「事実」が100%客観的であるとは限らないし、そのような態度をもって「客観的である」と言い切ってしまう自惚れに対して反省を促しているだけです。