「尊厳」について考えてみました⑤

尊厳死は殺人であり自殺です

なんだか尊厳死に対して批判的なことばかり述べているように思われるかもしれませんが、正直申しましてボクは尊厳死に対して全く批判的ではないし、個人の選択肢として人が納得されるのであれば、それは大いに結構なことだと思います。ではなぜ尊厳死に対して否定的なことばかり述べているのかという質問が聞こえてきます。お答えしましょう。「尊厳死」という言葉の使用と「尊厳を伴った」という不自然かつ強引な解釈に違和感を感じているのです。

人が「苦しみ」や「みっともない状態」からの解放を望んで自分もしくは身内の他者のために死を選択することに対して当事者でないボクが何か言える立場ではありませんが、積極的であれ消極的であれ死を選択するのであれば潔い方が良いということです。自分自身であろうが他者であろうが、最期の花道を「尊厳」で着飾ることでいかにも合理的であるかのごとく人生の幕引きを図るのではなく、最期までしっかりとせめて自分自身に対しては仮に非合理的(不合理的ではない)であったとしても正直であった方がよっぽど「尊厳」を伴っているように思われるからです。加えて、「尊厳」の濫用に疑問符を付したいという気持ちもあります。

マックス・ウェーバーの「国家」の定義というのがあります。ウェーバーによれば「国家」とは「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体」ということです。何だか分かりづらい定義ですね。要するに、国家だけが暴力を用いることが許されているということです。国家ではないヤクザが暴力を振るえば暴行罪や傷害罪に問われます。しかし国家が犯罪を制御するために用いる暴力は許されている。そして暴力の延長には「殺人」がある。国家ではないヤクザが殺人を犯せば殺人罪に問われます。しかし国家が凶悪犯罪を制御するために用いる「死刑」という「殺人」は許されている。他にも国家だけが「条約」を結ぶことができるし、国家だけが「戦争」を仕掛けることができる。そして、国家だけが「尊厳」の名のもとに医師による医療行為を通じて人を作為的もしくは不作為的手段によって死に至らしめることができる。

今の説明で気づかれるはずですが、死刑は「殺人」ですし、尊厳死も「殺人」です。多くの人が「さすがに殺人というのは言い過ぎでは」と思われることでしょう。でも「殺人」なんです。凶悪犯を処罰する目的、あるいは患者の「人としての尊厳」をまもる目的のためであるがゆえに「殺人ではない」と思われるのでしょう。気持ちは分からなくもないです。でも、目的が何であれ「人が殺される」ことに否定のしようがないというのが本音です。国家以外の者がド悪人を正義感から処刑するのは犯罪です。合法化されていない状況で医師が勝手に薬投与をやめれば、あるいは医師でもない人間が慈悲的な思いから勝手に薬投与を遮れば犯罪です。死刑は国家が行う限りにおいて犯罪にはならないし、尊厳死は国家が認可した状況下で行う限りにおいて犯罪にはなりません。殺人が犯罪になる場合と犯罪にならない場合がある。しかしいずれの場合も「殺人」には変わりはありません。

同様に、もしご自分が尊厳死を望むということであれば、それは「自殺」を意味します。考えてもみてください。自殺をする人は生における苦しみや尊厳の無さから解放されたいから自殺をするのです。安楽や尊厳を望む患者と、安楽や尊厳を望む自殺願望者。何か違いがあるでしょうか。安楽死尊厳死には身体的苦痛が伴いますが、自殺願望者には精神的苦痛が伴います。それだけの違いです。にもかかわらず安楽死尊厳死は自殺とは異なって美化されます。美化される自殺もありますが、それは例外ではないでしょうか。医療ではどうにもならないから安楽死尊厳死は自殺とは異なるという主張に対してもあらかじめ反論しておきましょう。医療その他の手段によって自殺願望者を救うことはできると断言できるのでしょうか。

尊厳死について述べてきましたが、繰り返しますがボクは尊厳死に否定的ではありません。しかし尊厳という言葉の濫用には大いなる違和感を感じます。尊厳死は殺人であり自殺であるという点を重々承知の上で尊厳死を選択するのであれば、それはたいへんに潔いです。そしてそのような認識の上で「尊厳」という概念をとらえ返すならば、おそらくは「尊厳」の本質というものが見えてくるのかもしれません。