「尊厳」について考えてみました④

なぜ尊厳死という言葉を使うのでしょうか?

脳死というのは、脳によって人間の死を判断することです。脳がダメになったら全部ダメなのです。脳が全ての基盤なのです。こういうのを唯脳論というのでしょうか。クジラやイルカを殺してはいけない理由は彼らが知的な動物だからです。知性がダメになったら全部ダメなのです。やはり脳が全ての基盤なのです。相模原市障害者殺傷事件の植松被告は意思疎通のとれない人間を「心失者」と呼び、「心失者は生きていても仕方ない」と主張してます。多くの人がこれに憤りを感じているようです。

でも植松被告の言ってることはホントに間違っているのでしょうか。意思疎通のとれない人間である心失者に尊厳はあると言えるのでしょうか。彼らにも尊厳があるのであれば、なぜパスタのような管につながれた患者には尊厳が無いと言い切れるのでしょうか。この違いは何なのでしょうか。そう考えると、ますます尊厳が何たるものかが不可解になってきます。

そもそも尊厳死を選択せざるを得ない状況下の本音は何なのでしょうか。少子高齢化を迎えた日本には高齢者のためのベッドが十分に備わっていないのは誰もが知っている事実でしょう。医療費の問題もあります。介護の問題もあります。できれば自宅で勝手に、というのが病院側の言い分なのでしょうか。自宅で家族に見守られてというと質を追求している感じで聞こえは良いです。でもそれは表事情でしょうね。

かつて人は自分の家で死んでいったが近代医学の発達によって人は病院で死んでいくようになった、なんてことを聞いたことがあるでしょう。かつて死というものは身近なものであったが近代医学の発達によって死は身近なものではなくなった、なんてことも聞いたことがあるでしょう。いわゆる近代批判ですね。

親しい人たちに見守られて死んでいくことの美学を、そして死を生というプロセスの中に位置づけて死に向き合うという美学を、おそらくは導きたかったのかもしれませんが、結果的には、尊厳という名のもとに医療放棄を正当化し、死と向き合わなくて済むような言い訳として「尊厳」という言葉が広辞苑から引っ張り出されたということではないのでしょうか。いわゆる裏事情ということなのでしょうか。

これから将来のある人々を優先するために、将来の無い人々には申し訳ないけどベッドを譲ってもらえないだろうかと、さすがに正面切っては言えないでしょう。知性のある人々を優先するために、知性のない人々には申し訳ないけどベッドを譲ってもらえないだろうかと、さすがに正面切っては言えないでしょう。「姥捨て」というものが単なる神話か実在したかに関しては諸説あるようですが、もし仮に現代に「姥捨て」が法令化されたならば、多くの人々は堂々と不要になった人間を闇に葬り去ることができ、「尊厳死」という七面倒くさい手続きを経る必要がなくなるため、「尊厳」という言葉は文字通り広辞苑という元の鞘に収まるのではないでしょうか。

福祉社会で知られる北欧国家は、高齢者に優しいというイメージが先行しているようですが、現実は自立と自由と権利という名のもとに元気で知性のある人々からは隔離されているようです。直接見てないので詳しいことは分かりませんが、北欧の福祉事情に関する本を読んでいると高齢者の孤独死などが取り上げられています。

元気なときはみんな「植物状態になったら死んだ方がマシ」と言うけれど、いざそんな状態になったら気が変わるのではないでしょうか。やはり生きていたい。どんな形であっても生きていたいと。そうでない人もいるし、そうだという人もいるのでしょう。

ただ、尊厳死が法制化されて社会に蔓延すると、本当は生きていたいのに社会的なプレッシャーによって尊厳死を選択せざるを得ないという風土ができあがってしまうのではないでしょうか。そうなるともはや「尊厳」は自尊心を構成する中核的な概念ではなく、体裁を形づくるための脅迫的な概念となってしまうのかもしれませんね。つづく.....。