非科学的ではダメなのでしょうか

鉱物採掘やダム建設といった人間活動が原因となって起こる地震があると『アメリ地震学会』が報告しています。言い換えれば人為的な地震があるということです。でも全ての地震が人為的というわけではありません。コロナウィルスが武漢のウィルス研究所で兵器として開発されたという話いわゆる陰謀論も耳にします。言い換えれば人為的なウィルスがあるということです。でも全てのウィルスが人為的というわけではありませんし、コロナウィルスと武漢ウィルス研究所との関連性については何の証拠もありません。この2つの事例から浮かび上がるのは「信憑性」についてです。わたしたちは様々な情報に接しますが、そのとき頻繁に耳にするのが「信憑性」であり、その科学的根拠ではないでしょうか。

そこで、あらためて「科学的」とは何ぞやという問いかけをしてみたいと思います。科学的であるためには2つの要件が要請されます。1つが「客観性」です。誰が見てもそうであること、誰がいつ行ってもそのようであること。このことから「再現性」という言葉が用いられます。2つ目が「論理性」です。Aという原因によってBという結果が導かれること。このことから「因果関係」という言葉が用いられます。両者に共通なのは例外がないということです。

わたしたちの周りには2種類の「科学」が存在するように思われます。1つが万有引力の法則やピタゴラスの定理のような「再現性」も「因果関係」も同時にクリアしているような本来の意味における「科学」です。もう1つは喫煙と肺がんの相関関係、食べ物や運動とメタボリック症候群の相関関係のような「疑似科学」あるいは「似非科学」です。前者は再現性と因果関係を100%クリアしているのに対し、後者は100%クリアしてはいません。

100%クリアすることとそうでないことの違いは何でしょうか。98%はかなりの高い確率であるから100%と言っても差し支えないと言えるのでしょうか。万有引力の法則は再現性が100%クリアされているから、全ての物体は他の力が働かない限り上から下に落ちます。ピタゴラスの定理も再現性が100%クリアされているから、直角三角形の底辺の2乗と高さの2乗の合計は斜辺の2乗に等しくなります。もしこれらの法則や定理が98%の再現性しか保証されないとしたら、リンゴ農家の100人に2人はリンゴの収穫に困ってしまうし、受験生の100人に2人は正解にたどり着けないことになってしまいます。

しかし喫煙と肺炎の関連性はどうでしょうか。喫煙した人が例外なく肺炎になったとしたら、おそらく喫煙と肺炎の関係は科学的に証明されたと言えることでしょう。でも100%でない限り、たとえそれが98%であっても、科学的と言ってしまって良いのでしょうか。ましてやそれほど高い確率でもないのが現実です。同じことはメタボリック症候群についても言えることでしょう。喫煙やメタボリック症候群の危険性が叫ばれても喫煙者やスイーツ依存症や運動不足がゼロにならないのは、その確率が100%ではないからでしょう。

本来科学とは因果関係や論理性が精密でありました。それがいつの間にか、関連性がありそうだ程度の目新しさを提起することによって科学的なベールに包み込まれることを許されるものになってしまいました。しかしよくよく考えてみると、喫煙と肺炎の関連性程度の「科学的」な研究はわたしたちの身近でも毎日のように目にすることができるのです。

天気予報に占い、批判をおそれずに言えば競馬予想なども、喫煙と肺炎の関連性程度に「科学的」と言っても過言ではないでしょう。天気予報に関して言えば、理科の地学分野で多くのことを学んだ経験から、きわめて科学的であると勝手に思い込んでいるようです。しかし占いや競馬予想となると、さすがに「科学的」と呼ぶには抵抗があることでしょう。それでも、長年にわたって培われてきた知識と経験によって導かれた結果として大吉や万馬券予想があるのであれば、それは科学的なプロセスを踏んでいる喫煙・肺炎の研究とそれほどの大差はありません。しかし占い師や競馬予想屋はもちろん、気象予報士も自分たちを「科学者」であると言わないでしょう。

本来の科学とは程遠い疑似科学または似非科学に従事する人々は自分たちを「科学者」であると称し、決して「私は似非科学者です」とか「僕はなんちゃって科学者です」とは言いません。なぜなのでしょうか。似非科学者が占い師や競馬予想屋ほど謙虚ではないからなのでしょうか。非常に不思議なのです。なぜ「科学者」であろうとするのか。喫煙と肺炎に限らず、他の様々な関連性を突き止めようとする研究は人々の選択肢を増やすという意味において、役立つ研究であることは確かです。役立つ研究、ただそれだけで十分ではないかと思うのですが、自分のやっていることが「科学的」でなければならない理由がボクにはよく理解できないのであります。

「科学的」という言葉は非常に権威的に聞こえます。ボクにはそれがeスポーツをスポーツに仕立て上げてオリンピック参加を目論む人たちの精神構造と同程度に思えて仕方がないのです。勝手にeスポーツやってれば良いように、勝手に喫煙・肺炎の研究をやってれば良いのではないかと。なぜスポーツであることに、そしてなぜ科学者であることにこだわるのでしょうか。やはりスポーツでなければダメなのでしょうか。非科学的ではダメなのでしょうか.....。