「尊厳」について考えてみました③

なぜ尊厳死なのでしょうか?

尊厳のある生とはいったいどういうことなのでしょうか。そしてそのような生はパスタのような管でつながれた瞬間から失われてしまう程度の生なのでしょうか。よく「周りに迷惑を掛けたくないから」というのが尊厳死を選択する理由に挙げられます。安楽死の場合は自分が楽になりたい、尊厳死の場合は自分の尊厳を大切にしたいと同時に他人に迷惑を掛けたくない、言い換えれば、他人の尊厳を尊重したいということなのでしょうか。こういった問いを解明するためにはまだまだ幾つか考えなければならないことがあります。

よく患者の親族が「こんな姿で生かすのは可哀想だ」とか「これでは生き地獄だ」というのを耳にします。患者の尊厳を尊重したいということなのでしょう。しかしそれは本当に患者の尊厳を思ってのことなのでしょうか。そうである場合もあるでしょうし、そうでない場合もあるでしょう。患者の尊厳という美辞麗句よりもむしろ自分の尊厳のためだったりすることはないのでしょうか。見舞いに行ったり看病したり介護したりの毎日に疲れて自分の尊厳について考えたりすることはないのでしょうか。患者の尊厳を口にするとき、ほんのわずかでも自分の尊厳と重ね合わせることはないのでしょうか。そのような人にとって「尊厳」という概念は非常に有り難く便利なものとなります。

「苦痛」や「生きづらいさま」や「みっともないさま」は患者ではなく看病する側のことを直接的には指し、それが患者側の問題へと間接的に転移されたとき、「尊厳」という言葉は一人歩きをし始めます。言葉が流通すると、わたしたちは思考停止して、その言葉について考えることを怠り、通貨のごとく流通するものの「あたりまえ」に身を託してしまいます。ちょうど毎日のようにその顔を見る福沢諭吉が「あたりまえ」になりすぎて、福沢諭吉という人物がどのような人であったかといったことへの興味関心がなくて済んでいる状態ととてもよく似ています。

そもそもなぜ「尊厳」という言葉が使われるのでしょうか。わたしたちは「尊厳」という言葉を「人権」という言葉とセットで見かけることが多々あります。人権や平等権を根拠づけるのは「人間の尊厳」であります。憲法国連憲章や独立宣言において人権を根拠づけるのは「人間の尊厳」や「個人の尊厳」です。自然法といって、人間がただ生まれながらにして当然に自然に獲得する権利という意味での「人権」を支えるのが人としての尊厳です。

この点、何かの業績に対して使われる「リスペクト」という概念との区別が必要です。ただ生まれながらにして人であるというだけでは「リスペクト」を獲得することはできません。リスペクトは世俗での評価を伴います。それに対して「尊厳」には世俗での評価は不要です。ただ人間である、それだけの理由で人間が内在的に持っているのが「尊厳」です。拡大解釈することによって「尊厳」を人間以外の生き物に適用することも可能です。この場合、「いのち」に対する尊厳が問題になるのではないでしょうか。

しかし人権があまりにも当たり前になった昨今、尊厳もまたあまりにも軽々しく使用されるためでしょうか、なんとなくその有難みのようなものを感じることが難しくなってきたように思われます。そもそも、なぜパスタのような管でつながれた状態に尊厳は無いのでしょうか。病弱で元気がない人間には尊厳が伴っていないように見えるということなのでしょうか。生命哲学者の森岡正博という人が「根源的な安心感」という考え方を述べています。それは「たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できる」という安心感のことをいいます。でもそんな安心感は一部の特権階級だけに許されるものであり、大多数の多くの「みっともない」人たちにとってはパラリンピック24時間テレビの時だけに享受することが許される夢のような現実なのではないでしょうか。つづく.....。