モナリザもモーツァルトも環境問題である

環境問題について考えた結果、わたしたちはとても大切なことに気づいてしまいました。それは、環境問題というときの「環境」とは何であるかという問いです。先の記事ですでに述べたように、国連や環境省は「環境」の定義を明らかにしていません。あまりにも当たり前すぎて、あえて定義する必要性を感じないからなのでしょうか。その意味で、「人為的」という形容は、環境の問題化を前提としていると考えなければならないというヒントをわたしたちに提示しているようです。環境とは何であるかの定義はないものの、とにかくその環境が「人為的」に、すなわち人間の手によって破壊されることを環境の「問題」として考えているということだけは理解できました。

自然災害だと長く信じられてきた地震の中には明らかに「人為的」なものもあるという研究結果をすでに紹介しました。まだ研究や調査が不十分なだけで、もしかすると全ての地震は「人為的」であったと判明する日が訪れる可能性もゼロではありません。最近ではコロナウィルスが武漢のウィルス研究所で兵器として開発されたという話いわゆる陰謀論も耳にします。これが事実であればコロナウィルスは「人為的」であると言えることになります。

もし地震が「人為的」であるならば、地震は自然災害ではなく環境問題として解釈されなければなりません。ではコロナウィルスはどうでしょうか。もしコロナウィルスが武漢のウィルス研究所で兵器として開発されたものであるならば、コロナウィルスは環境問題として解釈されなければならないのでしょうか。つまり、コロナウィルスがわたしたち地球の環境を破壊していると言えるか否かが問題となります。そうするとやはり破壊されているかもしれない「環境」とは何であるかが明確に規定されなければ何とも言えないこととなってしまいます。話をここで終わらせるのももったいないので、議論を自由に展開することをお許しください。

まず、コロナウィルスによって、わたしたちの人間環境が大きな犠牲を強いられていることは確かです。では自然環境についてはどうでしょうか。コロナウィルスによって自然環境の破壊がもたらされていると言えるでしょうか。言えますね。当初の話だとコロナウィルスの発生源はコウモリだったと言われてました。動植物を介してウィルスが蔓延するのであれば、それは自然環境を破壊していると言っても間違いではないでしょう。

そのように考えるならば、わたしたちの周りの「人為的」なものは全て環境破壊をもたらす可能性を有する立派な環境問題としてとらえ直す必要性が生じるのではないでしょうか。先日のお話の中で、自然に対置されるものとして文明や芸術を取り上げました。文明とは自然に人間の手が加わることによって創られるものであり、芸術とはやはり自然に人間の手が加わることによって創作されるものであるということを確認しました。自然に対して不自然なものが文明や芸術なのであります。人工的なものは人為的であり、それが高度に発達すればするほど人口と人為の度合いは増すものなのです。

自然に人間の手が加えられることによって「人為的」という形容は環境問題に結びつけやすくなりました。人為的なものは環境問題であると言い切ることができるならば、文明とはそれ自体が環境問題であり、自然と対置される芸術も同様に環境問題であると言えるでしょう。有史以前すなわち人間が文字を発明する以前から地球は環境問題を患ってきたと言えます。ただその問題性が現代の環境問題と比べると些細なものであるという勝手な解釈によって人間が納得しているだけのことです。

芸術活動もまた環境問題であるということは、モナリザモーツァルトも同様に環境問題なのです。しかしながら、環境に優しくなるためには絵を描くことは控えましょうとか、地球に優しい音楽作りを心掛けましょうとか、エコな取り組みでショービジネスとか、持続可能なハリウッドなどといったグリーンな呼びかけを聞いたことがあるでしょうか。ありませんね。なぜなのでしょうか。それは、環境問題には許されるものと許されないものがあるからです。それを決めるのは人間です。許される環境問題と許されない環境問題は「人為的」に境界線が設けられるのです。

なぜこんなことになってしまうのかというと、それは、環境問題における「環境」とは何を意味するのかがきちんと規定されていないからなのです。おそらく国連でしょうが、「環境」の定義をしっかりと明記しなければ、わたしたちは後ろめたさや罪悪感や背徳感を伴わずして絵を描いたり歌を歌ったりすることができなくなってしまいます。だから1日も早く国連には環境問題というときの「環境」とは何であるかを定義してもらいたいものです。もちろん、定義するという営みそれ自体が極めて「人為的」であるという批判を覚悟のうえで。