「尊厳」について考えてみました②

何が「尊厳」なんですか?

尊厳死が「尊厳を伴う死」であるのに対して、そうでないものを「尊厳を伴わない死」言い換えれば「みっともない死」であることを確認しました。そしてここで安楽死が安楽な状態へ向けた「苦しみからの解放」であるのに対して、尊厳死が尊厳のある状態へ向けた「尊厳の無い状態からの解放」言い換えれば「みっともない状態からの解放」であることも明らかになりました。

ここで説明を加えなければならないことがあります。それは日本語と英語の死生観の違いについてです。日本語では人は「死ぬ」という動詞の過去形である「死んだ」という形で表現するのに対して、英語では人は「死んでいる」という形容詞という形で表現することが多いということです。deadという形容詞は「死んでいる」という意味です。それはあたかも今は「死んでいる」けれども将来的に「生き返る」可能性があるかのような表現であります。マイケル・ジャクソンが亡くなった時のメディアの伝え方も"Michael Jackson is dead at the age of 51"でした。51歳にして「死んだ状態」になったという感じです。個人的にはマイケルには生き返って欲しいですが。

どうやら映画『ゾンビ』や『フランケンシュタイン』という発想が生まれる土壌が欧米文化にはあるということでしょうか。よく考えてみればイエスキリストは生き返りました。仏教にも確かに輪廻転生という発想がありますが、仏教でいうところの「生き返り」は今とは別の人間あるいは別の生き物といったように、別の存在への「生き返り」を意味します。正確にはそれを「生まれ変わり」と呼び、ゾンビやフランケンシュタインのような「生き返り」または「よみがえり」とは区別されますね。

話を戻します。尊厳死を「尊厳を伴った死」と呼び、「尊厳を伴わない死」あるいは「みっともない死」と区別する発想は「死に方」に比重があるように思われます。どのように死ぬのか。尊厳をもって死ぬのか、みっともない死に方をするのか。そんな感じです。しかしわたしたち日本人が尊厳死を語る場合、問題になるのは「尊厳を伴った死」と「尊厳を伴わない"生"」あるいは「みっともない"生"」との選択になるような気がします。言い換えれば、尊厳をもった「死に方」をするのか、みっともない「生き方」をするのか、ということです。もちろん西洋にも「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」との選択という発想も同時にあります。でもそれは医療の発達とともに「みっともない状態」のままでも植物状態として生きていける選択肢が生まれて以降に加わった選択肢なのだと思います。日本では尊厳死安楽死の延長として議論されるようになった経緯があるからでしょうか、最初から「尊厳を伴った死」と「尊厳を伴わない生」の2項対立であったように思います。

では「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」とはいったいどういうことなのでしょうか。当然のことですが、「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」を考えることは同時に「尊厳を伴った生」を考えることを意味します。「尊厳を伴った生」をきちんと説明できなければ「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」を説明することができないからです。当然にして、何が尊厳であるかは人それぞれと言う主張もあるでしょう。しかし本当に尊厳というものは主観の一言で片づけられる概念なのでしょうか。

「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」にこだわるよりも「尊厳を伴った死」の方が良いという価値観というようにサラッと言ってしまう怖さには真実に目を伏せたくなるという無責任さがうかがえるのですが、これはボクの気のせいでしょうか。ただ、「尊厳を伴った死」を望む人に聞きたいのは、ベッドの上でパスタのような管につながれたアナタの「生」は「尊厳」という形容でもってアナタの死を正当化しなければならないほど「みっともない」ものなのでしょうか。「尊厳を伴わない生」あるいは「みっともない生」と言い切ってしまうほどアナタのこれまでの生は「尊厳」という称号に対して脆弱なものだったのでしょうか。だとしたら、もともとアナタの生には尊厳など無かったのではないでしょうか。アナタの生にはその程度の尊厳しかなかったのではないでしょうか。つづく.....。