「尊厳」について考えてみました①

尊厳死」って何ですか?

「尊厳をもって」とか「敬意を表する」という表現が何気なく使用されますが、そもそも「尊厳」とか「敬意」とは何でしょうか。話の取っ掛かりとしてまずは「尊厳死」と「安楽死」について考えてみましょう。

そもそも尊厳死安楽死の区別を知っている人がどれくらいいるのでしょうか。いや、あえてボクは次のように問いたい。本当に尊厳死安楽死は別のものなのでしょうか。ちなみに尊厳死安楽死は一応は区別されているものの、実は論者によって解釈がまちまちなようです。

薬の投与を事例にした一番わかりやすい両者の区別は次のとおりです。安楽死は苦しみから解放して患者を安らかに死なせてあげるために薬を投与すること。人を死なせるために「何かをする(これを作為という)」すなわち薬投与するのが安楽死。それに対して、尊厳死は人としての患者の尊厳を尊重して死なせてあげるために延命のための薬の投与をやめること。人を死なせるために「何かをしない(これを不作為という)」すなわち薬投与をやめるのが尊厳死。積極的に何かを「する作為」としての安楽死を「積極的安楽死」、消極的に何かを「しない不作為」としての尊厳死を「消極的安楽死」と呼ぶこともあるそうです。治療に対して積極的か消極的かの違いです。するかしないか。ただそれだけの違いのようです。

ただしこのような区別は必ずしも万国共通というわけでもないし、国内でも議論の分かれるところみたいです。「全てのカラスは黒い」という主張ほどの統一性は保たれていないようです。区別をするには理由が必要になります。理由が無ければ区別することはできませんし区別する必要もありません。区別することができないということは「同じである」ということになります。でも「同じである」では納得がいかないのか、はたまた他に理由があるからなのでしょうか、どうしても「尊厳死」と「安楽死」を区別したいようです。なぜなのでしょうか。

なぜボクが「作為」と「不作為」を同じと考えるのだろうかと疑問に感じている方もおられるでしょう。ナイフで刺したりピストルを撃つというように「何かをする」ことによって人を殺せば「殺人罪」に問われます。一方で、保護を必要とする人をパチンコ屋駐車場に放置するというように「何かをしない」ことによって人を殺せば「保護責任者遺棄罪」に問われます。ただ、この「何かをしない」ことを「保護責任者遺棄罪」よりも重い「殺人罪」で起訴するケースも過去にありますし、ボクはあえて「何かをしない」という不作為による結果を「何かをする」という作為による結果と同一のものとみなしています。先に進みます。

さてここで、ものすごく単純な疑問が湧いてきました。安楽死には尊厳はないのでしょうか、そして尊厳死には安楽は求められないのでしょうか。苦しみながらも近代医学の恩恵に与って生きなければならない人を楽にしてあげたいと思ったとき、その人に対する尊厳はそこには存在しないものなのでしょうか。そんなことはないですよね。同様に、人としての尊厳を尊重するために尊厳死を検討するような状況にある人は安楽になりたいと思うほどの苦痛を味わってはいないのでしょうか。これもまたそうとは言い切れないですよね。ではいったい何のために尊厳と安楽を区別する必要があるのでしょうか。

この疑問を分かりやすくするために、安楽死とは「苦しみからの解放」と単純化してみました。それでは尊厳死とはいったい何からの解放なのでしょうか。「尊厳死」というからには「尊厳の無い状態からの解放」と言えばよいのでしょうか。ちなみに尊厳死を英語では「death with dignity」といいます。直訳すると「尊厳を伴った死」です。では「尊厳を伴わない死」は何というのでしょうか。英語では「death without  dignity」といいます。直訳すると「尊厳を伴わない死」そのままです。ところで「尊厳を伴わない死」とはもっと分かりやすく言うとどういうことなのでしょうか。ボクの直感的な英語解釈を述べさせていただくならば「尊厳を伴わない死」とは「みっともない死」ということになります。つづく.....。