芸術的な自然の不自然さ

先日、教え子に「文明って何ですか?」と質問されました。授業で「自然と文明についてまとめなさい」という課題を出されたとのこと。ボクなりに答えてみました。以下。

文明との対置を考えるのであれば、自然とは、形の有る無しにかかわらず、ただ「あるがまま」の状態を保っているものをいうのではないでしょうか。そして文明とは、人間の手によって作られたものをいう。古代文明とか文明発祥というのは、自然な状態に手を加えられた記念を祝した称号なのではないでしょうか。あるがままの川まで水を汲みに行くのではなく、川から水路を作って水を引くことによって土地に手を加えることで文明が始まったのだと。とにかく人間が自然に手を加えることが文明なのだと。その意味で、自然は全ての源泉であり、文明はつくりものであるとも言えましょう。それゆえに、例えば、富士山はあるがままで自然なものですが、『富嶽三十六景』は人間によって生み出された作品であり、文明がもたらしたものなのです。

ここで「自然」に対置されるものとして文明ではなく「芸術」を考えてみたいと思います。話を非常に分かりやすくするために英語の「アート」に置き換えてみましょう。「美術」も「芸術」もともに「アート」です。美しくない芸術も評価の対象となるでしょうから、おそらく美術は広い意味での芸術すなわちアートに含まれるものなのでしょう。そして全てのアートは人間の手が加えられたものであるという意味では「自然ではない」と言うことができるでしょう。芸術が自然に対立するものであるというのはそういうことです。アートである芸術とネイチャーである自然が相容れないものであると考えるならば、「アートネイチャー」は自然のような芸術を生み出したということに気づかされます。

しかしながら「育毛技術」とは言っても「育毛芸術」とは言いません。それは、技術が芸術とは異なるからです。正確に言うならば、日本語ではそう考えられているからです。育毛技術はある意味で芸術的ではありますが.....。ところで英語でartというと、日本語の「芸術」のみならず「技術」をも含むことを覚えておきましょう。正確に言うならば、「技術」の「術」の部分が英語の「アート」にあたるということなのです。アメリカの大学で使用していた文章作成術のためのテキストのタイトルが『The Art of Writing』でした。「作文の芸術」ということではなく「作文術」ということです。

芸術すなわちアートが自然に対置されると考えると、なるほど富士山を見て「なんて美しい山だ」とは言っても「なんて芸術的な山だ」とは言わないことに気づかされます。「芸術的だ」と賞賛する対象はすべて人の手が加えられたものなのですね。だから例えばギアナ高地を見て「芸術的だ」と言うのは自然に対する冒涜なのかもしれません。自然に対する「冒涜」という言葉を用いると「それは芸術に対する冒涜だ」という反論が予想されますが、単に芸術が自然ではないと言っているだけです。

「artificial」という単語があります。「人工的な」という意味です。つまりアートが「人工的な」ものであるということを示唆しています。「artisan」という単語があります。「職人」という意味です。つまりアートが「術」であるということを表しています。武術とは、武士にとっての職業としての「術」を意味しますが、それが武道に変容することによって職業から切り離されることになったわけです。

「自然」という語のごく自然な対義語はおそらく「不自然」ということになるのでしょう。人工的なものは不自然なのです。それでも美しいと感じるものもあります。美しいものの中には自然なものと芸術的なものが含まれます。富士山が美しいのは芸術的な意味においてではなく自然なものとしてであります。芸術が自然ではないのは、自然が不自然でないのと同じくらいに真なことなのかもしれません。そして、自然の反意語が不自然であるならば、文明は不自然なものなのでしょう。高度な文明であればあるほど、その不自然さは計り知れないものとなるのかもしれません。