エコなゴミ

以前パプアニューギニアに行ったときのことです。まだ20代でした。セピック川というのがあって、その川沿いの辺鄙な村で1週間自給自足生活を体験したことがあります。電気もガスも水道もありません。当時のボクは自給自足の術を知らないから、あらかじめ持参したドライフードを現地人と交易交換して過ごしました。現地の人は川から魚を釣るのが上手いのです。名前も知らない魚をドライフードと交換で手に入れて彼らと一緒に食べた思い出があります。彼らはみんなドライフードを気に入ってくれました。当時まだ開発されたばかりの宇宙食みたいなものとか、カップ麺も持参しました。ドライフルーツは好評でした。自分たちが普段食べているバナナが乾燥するとこうなるのかと興味津々だったのを覚えています。

さて、中身のなくなったプラスチック袋の処理をどうするべきか迷っていたところ、現地の一番偉いお方が「こうすりゃ良いんだよ」とさっきまでドライフルーツが入っていたプラスチック袋をボクから奪い取ってセピック川に投げ捨てたんです。ボクが「ゴミ捨てちゃだめでしょっ!」と偽善的な環境保護意識から指摘したら、その人キョトンとボクの顔を見てこう言ったんです。「オレらは普段からこうやって川に投げてるんだ」と。

そのとき気づいたのです。彼らが普段セピック川に捨てるものは食べ残しの魚の骨やフルーツの皮や木片といったものなんですよね。いわゆる環境に優しいエコなゴミというやつです。彼らにしてみれば、いつもやってる同じことをなぜプラスチック袋についてはやってはいけないのか理解できなかったようです。そのとき感じたんです。こうやって外部から持ち込まれたものによって何かがおかしくなるんだなぁと。

では何も持ち込まなければ良かったのでしょうか。わたしたちが知らず知らずのうちに何かを持ち込んだり何かを残したりすることは、無人の浜辺を感動して歩いた時に振り返ってみると自分の足跡が残っているといった経験からも察することができると思います。愛猫アルちゃんがよく家中をマーキングしてました。自分の存在の証のようなものを残すのでしょう。

よくよく考えてみると人間も「言葉」によって何かを残してしまいます。小さい頃におばあちゃんから「毒を吐いてはいけません」と言われました。人の悪口のみならず話したことや書いたことはすべて残ってしまいます。ボクはそのことを十分に承知の上で何かを発してしまいます。同じ毒でも知ってて吐くのと知らないで吐くのは違うかな。毒は吐かないに越したことはありませんが、仮に吐くことがあっても、吐いた後に何が残されるのかを十分に承知した上であるならば、吐いてもいい毒があるのかなとも思います。

30年近く前のこととは言え、すでに地球のグローバル化は始まっていました。全く外部との接触が困難な場所にボクが行くことなどあり得ません。ドライフードのプラスチック袋はボクがセピック川を訪れる以前からすでにそうやってエコなゴミ感覚で投げ捨てられていたことでしょう。たとえそうであったとしても、自分の持ち込んだプラスチック袋がどこへ行って何に変容するのかを自覚することは大切なことなのかもしれない。やってしまったことよりも、やってしまったことの意味を考えないことの方が罪深いのかもしれません。