『第1章:マージナル・マンからグローバリゼーションへ②』(ワニ先生の修士論文)

  

第2節:グローバリゼーションとマージナリゼーション 

マージナル・マン理論は、1920年代の制限立法以降、移民の減少という現実の刺激の低下によって衰退の一途を辿ったわけだが、他の地域と同様、この理論の発祥地となったアメリカ合衆国においても、人口編成の安定期は、ほんの束の間の出来事で終わった。現在に至るまでの移動の加速化と、それによって再構成された生活世界のありようを眺望する限りにおいて、現実の特殊な刺激が減少したどころか、この特殊な社会病理の枠組みが拡大して一般化したと解釈する方が適切であろう。グローバリゼーションの勢いに乗って、マージナル・マンの問題は「例外(exception)」から「通例(rule)」へと移行した。グローバリティの問題としてのマージナル・マン理論が、現代社会においては、グローバリゼーションの問題として捉えられるならば、マージナル・マンをめぐる一連の議論は、グローバリゼーションの前史として位置づけることが可能になるのではないだろうか。

(1) マージナル・マンとグローバリゼーション

スーツに身を包むヤンゴンボンベイのビジネスマンがいる。その一方で、ニューヨークあたりでは、ロンジーやサリーを着こなす若者もいる。資本のグローバル化によって、我々の日常世界は一種のミュージアムと化した。

昔の新羅の首都であるキョンジュは、モダンな高速道路と超高級ホテルを擁する観光都市と化してしまった。ホテルの衛星放送でNBAの試合を観戦した後、静まりかえる街へ出てみた。カフェでは、地元のシンガーがアメリカのポップスを完璧な英語で歌っていた。しかし私は、メイン州の田舎で過ごした夏の日と、アメリカンなティーンエイジ・ロマンスをそこに重ね合わせることができなかった。文化があまりにも異なっていたのである。                                                                                                                            

次の日、仏教寺院で私が見たものは、ハイファイ音で流れるお経に合わせた、僧侶達の祈りであった。643年にこの寺院が建てられて以来、礼拝自体はその時のままで静かに営まれるのであった。寺院には衛星放送用のアンテナが設置されていた。外に出て私は、僧侶の詠唱が録音されたコンパクト・ディスクを購入した。
                                                            [Lemert, 1997: 19-20]

C.レマートは、ポストモダンとはまさにこのような経験と関わるものであるという。今日の食料市場においても、パークやストーンクウィストの時代のそれとは全く異なった様相を呈している。食料品の多様性は料理のスタイルをも変容させてしまった。これらの流通を加速させるのに、一群の移民を必要とはしない。モノの流れは人の流れよりも動きが激しいのである。

商品の流れほど加速的ではないにしても、人のグローバルなフローは、世界をメランジュな香りで満たしてしまった。グローバリゼーションの加速化によって、人々は、労働移民、行商人、ツーリストなど、様々な形でフローの波に乗る*1。この中には勿論、ただ単に、同一の言葉・貨幣・慣習がまかり通る商圏を動いているだけの「移動しない移動民」も多く存在する。こうして、我々の世界は人々の多様なフローが交差する一つの中継点となってしまった。

「都市は匿名的」というのは聞き慣れた表現である。街ゆく人々で知らない者はいないようなかつての時代は既に過ぎ去ってしまった。ストレンジャーの世界である。しかしここでいうストレンジャーとは、例えば、キリスト教徒のコミュニティ内にいるユダヤ人のようなモデルのみを指すのではない。我々はみな、ストレンジャーという群衆の中に生きるストレンジャーとなったのである。

そのようなストレンジャーは、パークやストーンクウィストの時代には存在しなかった。前近代あるいは近代におけるストレンジャーは、今日我々が出会うストレンジャーとは異なる。「見知らぬ人(ストレンジャー)」とは、かつては「奇妙な人(ストレンジ・パーソン)」であった。例えば、ジンメルのいうストレンジャーとは、外部からやってきても直ぐにはそこを去ることのない、明日もまた止まり続ける外部者(ストレンジャー)であった。そのため、共同体内でのストレンジャーの地位は「全人格的存在」を指すものであった。ところが現代のストレンジャー世界では、かつてのようにストレンジャーを「全人格的存在」として想定しながら相互行為することはない[Giddens, 1990=1993: 102-103]。現代社会では、われわれは見知らぬ人々と絶えず接触しているのである*2。このような現代のストレンジャーは、L.ロフランドの定義によって次のようにコンパクトにまとめられる。

ストレンジャーとは、準拠となる行為者には個人的には知られていないが、視覚的には認識可能な人々[Lofland, 1973: 18]

近代においては限定的にしか境界づけられなかったストレンジャーの世界も、現代の都市においては、より包括的なものとして解釈されるのである。

ストレンジャーの世界という考え方は、われわれが認知する世界の縮小をも意味する。ストレンジャーはもはや、「あちらにいる人(being over there)」ではなく、「すぐそこにいる人(being right there)」となる。このような世界の縮小感は、テクノロジーの発達がもたらした「グローバル・ヴィレッジ」[McLuhan, 1964: 93]において顕著となる。

印刷技術の発達による、口承文化から文字文化への移行に伴って、人々の経験は断片化し、プライヴェート化した。さらなる変容はグローバル効果をもたらし、ギデンズのいう「時間・空間の分離」(後に取り上げる)を許すこととなった。コミュニケーションの加速化によって、人々は、遠く離れたローカルを結びつけ、部族(トライブ)や村(ヴィレッジ)といった彼らの意識は薄れていった。

さらに画期的な移行は電子メディアの発達によって促され、コミュニケーション・ネットワークを相互依存的なものに変えた。世界の地理的に複雑な状況が一度にテレビに映し出される。電子メディアの発達は、異なった場所を同時に体験することを可能にした。また、マス・ツーリズムやスペクタクルな場所で制作される映画などを通じて、シミュレーションや代理体験も可能になった。これによって、口承文化時代を思い出させる、部族という集合的文化が復興したが、電子メディアはそれを地球規模(グローバル)の村(ヴィレッジ)にしたのである。[McLuhan, 1964: 358; Harvey, 1989: 293]。

異質なものとの接触、多元的な価値観の流入、複数の文化圏の交差。マージナル・マン理論においては一つの社会的病理を生み出す背景となったこれらの現実が、グローバルの加速化によって、より多くの人々を巻き込むリアリティとなって現代社会を席巻した。マージナル・マン問題は、ある意味で、グローバル性(globality)の一つの形態・事例を示唆していたものである。現代においては、グローバル性の個別性が、よりグローバル規模で、尚かつ、構造的なグローバル化とも相まって、グローバルに拡散したのだとは言えないだろうか。そしてこの拡散するグローバル性は進行を止めることがない。現代の加速的なグローバル現象を、実体としてではなく、過程にあるものとして捉えた言葉が「グローバリゼーション」なのではなかろうか。

(2) マージナルからマージナリゼーションへ

それでは、グローバリゼーションをマージナル・マン理論に即して捉えるとは「厳密には」いかなることであろうか。確かに、世界の縮小によって、われわれの日常はますますグローバル・システムの中に組み込まれることとなった。しかし、テクノロジーが人々のコミュニケーションを容易にしたという事実と同様に、世界が人々によってどのように経験されるようになったかといった根本的な資質を、グローバル化の過程が有しているということにも注目しなければならない。先のレマートの引用は、人々の間に生じるコンタクトが、「グローバル・ヴィレッジ」によって単に強化されただけではなく、一風変わった様式に再組織化されたことを示唆するものであろう。たしかに現代の世界においては、多くのローカル・セッティングが異質なものの混合によってますます特徴づけられてはいる。しかしマージナル・マン理論は、人々の接触(コンタクト)が生み出す心的領域や文化構造の変容に着目したものであった。ここで、ストレンジャーおよびマージナル・マンにおいても指摘された「コスモポリタニズム」を取り上げ、本論のベクトルを明示するための一つの手掛かりとしてみたい。

コスモポリタニズムは、ジンメルストレンジャー論においては、ストレンジャーに与えられる特殊な性格である移動性を説明する表現として捉えられる。ジンメルは、定着することのないストレンジャーの形式的な位置のことを「客観性」あるいは「自由」と表現したことは既に述べた通りである。コスモポリタンとしてのストレンジャーは、「実践的にも理論的にもより自由な人間であり、彼は状況をより偏見なく見渡し、それをより普遍的より客観的な理想で判定し、したがって行為において習慣や忠誠や先例によって拘束されない」者となる[Simmel, 1908=1994: 288]。

客観性で表現されるコスモポリタニズムは、ストレンジャーやマージナル・マンに関する議論では決まり文句となって謳われ、異文化理解の戦略としてその猛威を振るう。マージナル・マン理論においては、コスモポリタンは仲裁者として記された。

さらに、マス・コミュニケーション研究における「影響の形式」との関わりから、コスモポリタンな影響者とローカルな影響者を区別したのはR.マートンであった。この二つの型の影響者は一つのコミュニティにおいて異なった力を発揮する。ローカルな影響者は、大社会を考えたり、それに働きかけるようなことはせず、ひたすら地方問題だけに関心を限定するのに対し、コスモポリタンな影響者は、コミュニティに影響を及ぼす存在であるがゆえ、最小限の社会関係は維持しなければならないが、基本的にはコミュニティ外部の世界へ指向するのである[Merton, 1949=1961: 357]。

マートンの事例研究は、合衆国東部にあるロヴェアというコミュニティを対象としたものであるがゆえ、両影響者の区別はナショナルな文脈に限定されたものであった。ここでいうコスモポリタンとは、純粋にローカル構造内のみにおいて思考するというよりも、むしろネイションという構造内に生きる者を指す。しかし、文化・社会構造のスケールは、それ以後、拡大したため、ロヴェアのコスモポリタンは現代では比較的ローカル色のつよい人物となってしまう。

ロヴェアのコスモポリタンに比べれば、ストーンクウィストによる事例の一つとしても取り上げられた福沢諭吉アーウィン・ベールズの方が「よりコスモポリタン」であった。コスモポリタンは、しかしながら、ストーンクウィストを含むこれまでの研究では、社会関係の型について用いられてはいたものの、比較的、実体として捉えられていた。そのため、分析の対象が何であれ、「コスモポリタンとは何たるか」といった定義が不可欠なものとなっていた。

コスモポリタンが移動性に富む点は全ての論者に一致する見解である。ジンメルによるストレンジャーは、行商人に典型的に見られる移動民であった。パークやストーンクウィストにおいては、移動がもたらすコンタクト、および、そのようなコンタクトによって生じるマージナリティが問題関心であった。マートンの事例研究におけるコスモポリタンは、国内を方々に移り住んだ後に最終的にロヴェアにやって来た者であった。

しかし、移動することがコスモポリタン十分条件とはならないことは、ツーリストの事例からも明らかである。映画『偶然の旅行者(The Accidental Tourist)』の主人公が執筆するガイド・ブックは、気持ちはローカルなコスモポリタンなビジネスマンが「オレゴンに行っても気分はボルチモアになれる」ように書かれたものである。東京のどこへ行けばビッグ・マックが食べられるか、メキシコ・シティのどの辺にTaco Bell(アメリカのメキシカン・ファストフード・チェーン)が存在するか、といった具合に。つまり、ツーリストのようなコスモポリタンとは、ローカルのプラス・アルファでしかあり得ないのが現実である。

そこで、コスモポリタンを実体としてではなく、ローカルとの関係の中に捉えたのが、U.ハナーツのコスモポリタニズム論である。ハナーツは、均質性としてではなく、多様性の組織化として特徴づけられる文化のグローバリゼーションを、「世界文化(world culture)」として位置づける。それは、「どの領土にも明確な投錨を持たない文化の発展と同様に、多様なローカル文化の急増する相互連関性を通して創造される」[Hannerz, 1990: 237]世界を意味する。そのような世界文化論において、ハナーツはコスモポリタンとローカルを対置させる。文化の相互連関性によって、世界はローカルのみに占められるものではなくなる。世界文化が、個々のローカルのパーツを寄せ集めた以上のものだからである[Ibid.: 249]。グローバルの文化地図には、ローカルとコスモポリタンが共存するのである。

ローカルなくしてコスモポリタンはあり得ないとしながらも(ロバートソンはこれを、グローバルとローカルの弁証法と読み替える[Robertson, 1995: 32])、ハナーツは、コスモポリタンを明確には定義しない。「コスモポリタンはむしろ、パースペクティヴであり心的状態を意味するものである」[Ibid.: 238]。それは、各々のこころの中に、ローカルとコスモポリタンの両極が宿ることを意味する。それでは、ハナーツはコスモポリタンをどの点に見出そうとしているのであろうか。

コスモポリタニズムには、より厳密に言うと、多様性それ自体へ指向するスタンス、個人の経験における多文化の共存へ指向するスタンスが含まれる。より真正なコスモポリタニズムとは、まず第一に、他者に関与しようとする自発性や方向づけ(orientation)のことをいう。[Hannerz, 1990: 239]

ローカルとの関係においてのみコスモポリタンを位置づけるハナーツの議論によって、これまで客観性の信憑性を問うことなしに楽観的に位置づけられてきたコスモポリタニズムを乗り越えることが可能となったのではなかろうか。

マージナル・マン概念は、十分な事例に富むものではなかった。そのうえ、定義が曖昧であったために、数々の批判に晒されることとなった。定義することに失敗したというよりも、むしろ定義すること自体が失敗だったのではなかろうか。マージナリティを定義するということは、近接の概念であるクレオールシンクレティズム、ハイブリッドなどを定義するのと同じように、純粋なカテゴライズを目論むという不思議な運命のアイロニーに陥ってしまう。それらが、止まることを知らない交差路的(クロスオーヴァー)な運動によって生じる曖昧(ファジー)なもの、混合的(メランジュ)なもの、あるいはおそらくは切断と融合(カットゥンミックス)であり続けるためには、それ自体を定義するのではなく、一つの運動過程(running process)として捉えなければならないのであろう。なぜならば、既成のカテゴリーはみな、この運動をインセンティヴとして現在に至るからである。

マージナル・マン理論を理論として捉えることには限界がみられる。しかし、マージナル・マン理論で提起された問題は、グローバリゼーションとは全く密接不可分な関係にあるとは言えないにしても、それを紐解く上での一つのツールとはなりうる。グローバリゼーションを読み解くための数あるパースペクティヴのうちの一つの戦略として、この理論に残された手掛かりをきっかけにすることは、まだまだ有効な試みとなりうるだろう。

本論においては、マージナリティを明確に定義することはしない。しかし、それを関係概念として設定し、グローバリゼーションへの一つの源泉としてみるならば、この概念のもつ曖昧さも少しは解消されるかもしれない。このように考えてみよう。例えば、ハナーツによる「コスモポリタン」の定義が実体というよりも、ローカルとの対置として、ローカルとの関係の中に捉えることのできるものであるように、マージナリティとは、一瞬一瞬のスナップショットの中においてしか見いだせないものであると。そのようなマージナリティに方向づけられるプロセスを捉える概念としては、マージナリティよりもマージナリゼーションという言葉の方が相応しいものであると。

以下、各章において、マージナル・マン理論からグローバリゼーション議論へと至る系譜に沿う形で、マージナリティからマージナリゼーションへの変遷を考察していく。マージナリゼーションは、現代のグローバリゼーションを咀嚼するためのツールへと導く、水先案内人となるのである。

 

*1:但し、グローバル化によって、かえって移動が困難になるケースもある。ヨーロッパの多くの移民受け入れ国では、再鎖国政策によって、域内での労働移動を許しはしても、旧宗主国への入国を厳しくチェックする。欧州連合の要塞化によって、どこの都市から足を踏み入れようが、厳密な入国審査を受けることとなる。[勝俣、1999: 47]

*2:ギデンズは、そのようなストレンジャーとの出会いに象徴される現代社会の秩序維持にとって必要な装置の一例として、ゴフマンの「儀礼的無関心」を挙げている。