文化は進化しない

われわれは、これまで多くのお菓子や飲料が「モンドセレクション金賞受賞」したのを見てきたと思います。あれは言ってみれば「ミシュラン」のお菓子版ということなのでしょうか。モンドセレクションは「92か国から寄せられた商品に対して評価」を下しているとのことです。しかしどうやら日本以外の諸外国においてはモンドセレクションはそれほどの認知を得ていないようです。最近になってようやく日本以外のアジア諸国を含む「発展途上国」にモンドセレクションへの意識が高まっているのが現状のようですね。

調べていないので詳細は分かりませんが、『たべっ子どうぶつビスケット』は諸外国でどれくらい販売されているのでしょうか。そしてそのうちのどれくらいのパッケージに「モンドセレクション金賞受賞」の文字が各国語によって表示されているのでしょうか。加えて、諸外国の消費者にとって「モンドセレクション金賞受賞」という表示は『たべっ子どうぶつビスケット』を購入するための強い動機付けになっているのでしょうか。

ボクは「モンドセレクション金賞受賞」は「ミシュラン」ほどの認知度は無いと思います。味のレベルのみならず健康面の品質保証は考えてみるに値するとは思います。それでも諸外国の消費者は日本人ほど健康神話に踊らされてはいないと思います。健康食品においても購入の目安になるであろう食品表示ですが、昨今はその表示内容と実態に関して「不当景品類及び不当表示防止法」に基づいて消費者庁によって虚偽が暴露されるケースが多いですね。

そもそも、とりわけ日本人はなにゆえにこうも「表示」に弱いのでしょうか。「表示信奉」はひとつの文化なのでしょうか。かつてオグバーンというアメリカの社会学者が「文化遅滞理論」なるものを唱えました。科学技術の発展によって物理的な有形物の進歩は著しくなるものの、文化的な無形物の進歩は遅く、物理的な有形物ほどは進歩しないので、技術と文化の間にタイムラグが発生するとのこと。文化の進歩にはタイムラグがあるので「文化遅滞(カルチュラル・ラグ)」と言います。しかし文化に科学技術ほどの「進歩」を期待するのはあまりにも愚かなことではなかろうかとボクは感じているのであります。

明治維新によって西洋化した日本人が少しずつ箸からフォークへと食事スタイルを変容させていくことがあるとでもいうのでしょうか。そんなことはありません。文化の進化は「遅い」のではありません。文化は「進化しない」のであります。仮に文化が進化することがあったとしても、それは科学技術の進化の影響のもとに科学技術の進化に伴って進化するのではなく、それとは無関係に進化するとボクは思うのです。オグバーンの本を読んだことがないので彼がどのような意図で「文化遅滞」を提唱しているのかは分からないので、これについてはこの辺でやめておきます。

ところで「モンドセレクション金賞受賞」は結局は「ミシュラン」のみならず「世界遺産」そして最近だと「定番の駅弁」となんら変わらないただのブランド志向という気がしてなりません。ブランドには力があります。おそらく「学歴」というのもそのようなものと解釈してよいのでしょう。だから「モンドセレクション金賞受賞」を表示することは、「うちの子は開成を出て東大に入学したんですのよオホホホ」とブランド力の無い自分自身の無力さを補填するために我が子を誇らしげに語る母親や「赤ワインに漬け込んだ季節のイチジクと柔らかい鴨とのマッチングはさすがミシュランの味だねハハハハ」と初デートで相手に好かれようと必死に自分をアピールすることに気を取られて前菜用のフォークを内側から取り出してしまう男性とその精神構造にあまり変わりはないのであります。

作家大江健三郎知的障害者の息子が音楽家としてデビューしたときに坂本龍一がそのCDを聞いて「取り上げる価値の無いものだ」と切り捨てました。知的障害者だから取り上げないのは差別ですが、知的障害者なのに頑張っているというただそれだけのことで取り上げるのだとしたらそれはそれで逆差別だということができます。加えて大江健三郎の息子ということであれば世間は色眼鏡で知的障害者の息子をとらえることでしょう。知的障害者なのに頑張っていると同時に大江健三郎というブランド力がつきまとう運命にあることには同情の声もあることでしょう。

世の中はブランド力を志向しているものの、本当に良いものにはブランドは必要ないのでしょう。エジプト考古学者の吉村作治氏はたとえそれが世界遺産登録されていなかったとしてもピラミッドに魅了されたことでしょうし、スイーツが大好きな人はたとえそれが「モンドセレクション金賞受賞」であったとしてもなかったとしても旬のイチゴで彩られたケーキにヨダレをこぼすのでしょう。本当に美味しいものには「モンドセレクション金賞受賞」や「ミシュラン3つ星」や「定番の駅弁」といった要素は必要ないし、本当に頭の良い人物には「東大卒」という称号は必要ないのでしょう。逆に、そのような称号を過度に強調することが自分の立ち位置を不利にする場合もあるのではないでしょうか。もっとも、それほどブランド力があるのであれば今度履歴書を書く際に「今年度モンドセレクション金賞受賞」と書くことも検討しなければなりませんが。

われわれはブランド志向という「文化」からいずれは離陸することがあるのでしょうか、それともブランド志向はわれわれにとって保護に値する「文化」なのでしょうか。仮に保護に値する「文化」であったとして、保護されなければならないほどの脆弱な文化を「文化」と呼ぶだけの誇りと勇気を持ち合わせているのでしょうか。われわれの「中立性」と「客観性」と「公正性」が問われるところでしょう。