無知のベール

経営者と労働者、喫煙者と禁煙者、死刑賛成論者と死刑反対論者、自由貿易主義者と保護貿易主義者、既婚者と未婚者、黒人と白人、男と女。世の中はいろいろな二項対立によって成り立ってます。垣根を越えた相互理解を理想とする人たちもいる一方で、自分の置かれた状況を最優先する人たちもいます。このような対立は人間社会にはつきものです。でもそんな対立を何とか解決できないものかと日夜努力する人たちがいるのもまた事実なのであります。対立する意見をどのように解決すべきかをめぐる1つの提案が「無知のベール」と呼ばれるものです。

「無知のベール」という考えはジョン・ロールズというアメリカの哲学者によって提唱されたものです。それは、自分の社会的な位置づけや立場に関して全く知識を持っていない状態を意味します。自分の性別や人種、そして趣味嗜好や特技に加えて自分の家族背景や財産状態を含む、とにかく自分に関する全ての情報に対して「無知のベール」を覆われた状態になることを意味します。そうすることによって、自分の利益を優先することができなくなり、目の前の問題に対して良き解決を導くことができるという思考実験なのです。

経営者であれば通常ならば経営者の観点から経営者の利益となるようなことを最優先に考えてから労働条件を考えますが、「無知のベール」に覆われた経営者は自分が経営者であるのか労働者であるのかが分からないので、自分がどちらの立場になっても良いように最適な労働条件を真剣に考えようとします。同じことは労働者についても言えます。ロールズ氏によれば、全ての人の被害を最小限に抑えることのできる解決策がこの「無知のベール」ということになります。喫煙者や黒人や男性はそれぞれの利益を最優先に考えることなく禁煙者や白人や女性の立場になって考えることも可能となるから「無知のベール」はいろいろな思考実験の場で活用されているようです。

しかしこの考えに異議を唱えたのがマイケル・サンデルというアメリカの政治哲学者です。『ハーバード白熱教室』で有名になったサンデル氏です。ロールズ氏とサンデル氏は実は論敵同士なのです。ロールズ氏が「自由」を重視するのに対して、サンデル氏は「社会」を重視する。分かりやすく言うとそのような違いでしょうか。そんなサンデル氏はロールズ氏の「無知のベール」を「無意味である」と批判しています。

われわれは特定の国に属する特定の国民として特定の地域に居住する特定の家族のもとに生を受け、その後は特定の教育を受け特定の宗教を信奉あるいは拒絶しながら特定の環境および特定の文化の中で特定の価値観を育みながら生活するというプロセスを経て今に至っています。つまりわれわれは様々な「負荷」を伴った存在として自分が生きるための方向性を「位置づけられた」運命にあり、その置かれた存在においてしか己を「物語る」ことができないものなのであります。

それゆえに、いきなり「最大多数の最大幸福」によって効果的にすべての人にとって良き社会を築けるように問題解決するために「無知のベール」で自分の全ての属性が覆われて分からない状態になったと想像してくださいと言われても、それは自分のアイデンティティが希薄になった状態を想像してみてくださいと言われているようなものでありナンセンスな問題提起なのであります。自分が何者であるかも分からない状態の中で公共にとって最良の判断をしなさいと言われても、そもそも「判断」するための基盤となる思考を司るのが自分の置かれた社会的状況であることを否定することは不可能なのであるから、なぜ公共にとって最良となることを思考して判断しなければならないのかを考え抜く力がないはずなのです。そんな意味のない状況設定によって導かれた結論は当然にして意味のないものとなるわけであります。それがサンデル氏のロールズ批判の概要です。

われわれはいつも他人や社会や公共のために最良なものはなんであるかを考えることを余儀なくされます。そのときにいつも「なるべく中立的」に「なるべく客観的」に「なるべく公正」に判断することを要請されます。しかしながらすでに説明したように厳密な「中立性」と「客観性」と「公正性」を保つことは無理であると同時に無意味なことなのであります。だからと言ってただただ自分の置かれた状況だけを考えていれば良いと主張しているのではありません。それは単なる「開き直り」であります。そうではなく、厳密な「中立性」と「客観性」と「公正性」を保つことの不可能性を了解しつつ「なるべく中立的」に「なるべく客観的」に「なるべく公正」に判断することを唱えているのです。

「なるべくで良いのか」と安心なさっているアナタ、実はその「なるべく」が一番難しいのです。なぜならば、「なるべく中立的」に「なるべく客観的」に「なるべく公正」に判断するためには、そのように判断するための自分がどこにいるのかといった自分の「立ち位置」や、自分が何を考えているのかといった自分の「主観」や、自分だけの幸せにとって一番合理的な状況は何かといった自分の「偏った考え」を全て理解したうえでなければ下すことができないものなのだからです。それゆえに自分の考えを何とか言葉にして物語ることが重要なのではないのかとボクは考えるのであります。