哀愁と歓喜と狂喜

サルサという音楽ジャンルを聞いたことあるでしょうか。プエルトリコ出身の人たちが集まるニューヨークのとある地域で生まれた音楽ですが、それが少しずつスペイン語圏の中南米に広まったものです。よく中南米を旅したときに耳にしたのがサルサでした。

ボクの中で一番印象的なのはメキシコやペルーの町中を走る乗り合いバスの中で聞いたサルサです。普通はパーティーなどで演奏され、人々はそれに合わせて軽快なリズムで踊るのです。その時はみんな楽しそうで、そういう状況にマッチした音楽なのだなと感じていました。ところが、町を走る乗り合いバスの中で聞くサルサにはそのような単純な楽しさというものがありませんでした。むしろ淡い哀愁のようなものを漂わせる力強さがサルサにはありました。日本では考えられない公共のバスの中での大音量のサルサのリズム。乗り合いバスに乗車する人々というのは決して裕福などではなく、それが理由かどうかは定かではありませんが、あの軽快なサルサのリズムがバスの中で響くのにもかかわらず、人々はただその日を生きることに精一杯という切なさに満ちた表情を浮かべながらボクの顔をジッと見つめるのでした。

あれから何年経ったでしょうか。今でもときおりサルサを耳にしますが、やはりボクの中では哀愁漂う音楽というイメージが定着してしまったようです。音楽にも「文脈」というものがあって、どうやら生活の中に浸透した「音」というものは、どんなに精緻に作られた音を重ね合わせたとしても音楽CDでは体現できないものなのかなというように以前から考えてました。

以前読んだ本の中でエドワード・ホールという人類学者がアメリカ原住民のナバホ族が映画を制作する現場の観察を伝えていました。ホール氏はナバホ族の視覚感覚が映画の編集過程に及ぼす影響に注目していたんです。通常は断片的に思考されたものを統一的な全体にまとめあげることによって映画が制作されるため、「編集」というプロセスが重要な役割を果たしますが、ナバホ族の場合は、映画全体の「流れ」を前提として撮影がなされるため、編集のプロセスは各断片の思考において同時になされているということらしいのです。

後から好きなように人工的に編集され完成された理性的音楽の中にはもはや「リズム」は宿らないのだと感じました。町を走る乗り合いバスの中で聞いたサルサというのは、将来や夢にあふれた日常を生きるわれわれの置かれた状況で聞いてもそこには「リズム」が感じられないのです。「リズム」というのは、CDといった物理的な産物の中から生まれるものなのではなく、むしろその場で今生きているという経験の中で繰り出される身体的な実践の中に、あるいは、特有な意味のある空間の中に繰り出されるものなのではないでしょうか。

単に「音楽ジャンルとしてのサルサ」もしくは「概念化されたサルサ」または「完成されたサルサ」の中に「リズム」を見出すことは不可能なのかもしれません。サルサという音楽は少なくともボクにとってはサルサそれ自身の中で「生きられる」ことを経験する中で培われる感性の一部のような解釈が一番シックリときます。

痩せたせいでズボンがだぶつくことをスペイン語で「ズボンが私を踊らせる」と表現します。同じように靴のサイズが大きすぎて合わないことをスペイン語で「靴の中で足が踊っている」と表現します。踊りはラテンアメリカの生活の中にしっかりと息づいています。しかしわれわれの日常生活がそうであるように、ラテンアメリカの日常生活が常に歓喜や快楽で満たされているわけではありません。町を走る乗り合いバスの中で聞いたサルサの中に哀愁が漂うように、踊りは哀愁と歓喜そして時には狂喜が交錯するモザイクの中で自分の居場所を求めているような、そんな感覚がボクの中にずっとあります。音楽は思考の産物であるのみならず、その思考をも形づくるものなのではないでしょうか。