お○○こ再考

The boy playing the guitar over there is my brother.

英文法を教える機会がありますが、「分詞」の章にくるとボクを悩ます文章があります。上記文章を訳すと「あそこでギターを弾いている少年はボクの弟です」となります。こんな文章をいったいどこで使う機会があるというのだ、という素朴な疑問はさておいて、この日本語をワープロで打つと頻繁に「アソコでギターを弾いている少年はボクの弟です」が最初に変換されることがあります。「アソコ」でギターを弾くというのは何事かと。どうやって弾くのだと。これの姉妹編というのがありまして、「アソコでアイスクリームを食べている少女はメアリーです」というものです。やはり「アソコ」でアイスクリームを食べるメアリーはなかなかのヤツだなあと授業中に妄想ばかりが地平線にまで広がって、それがボクの悩みの種です。種は「タネ」でもおかしくないです。あそこはなぜ「アソコ」になった瞬間からボクの嗜好を、いや思考を妨げてしまうのだろうかと。

英語では男性器を意味する単語も女性器を意味する単語も豊富です。スラングを含めれば結構な数になると思います。ちなみにボクがこれまでアメリカ人に聞いた中で、一番危険な侮蔑語は「cunt」です。良い子は口にしないように気をつけましょう。哲学者はKantです。ボクが今話題にしているのは「cunt」です。女性器を意味します。英語では結構、男性器も女性器も意外と日常会話で口にすることがあります。「cunt」は別ですが。日本語ではどうかというと、「おちんちん」とは言えても「おまんこ」というのはなかなかの勇気が要ります。なぜなんでしょうか。

アソコでハープを奏でたり、アソコで喧嘩したり、アソコで遊んだり、アソコで儀式を行ったり、アソコではいろんなことができるんです。副詞句ではなく形容詞句的な「アソコの景色」や「アソコのあんかけ」というのもあります。「アソコのスープ美味しいよね」とか「アソコのタレは絶品だ」とか「アソコから出てきます」とか「アソコに入れてください」とか.....アソコが万能変数であることだけは分かりました。いったいアソコにはどんな夢が広がっているというのでしょうか。

この手の話題に及ぶと場の空気を乱してしまいがちです。特別な状況において以外でオマーン国際空港といった紛らわしいトリックを含めいかなるオマンコも口にはできません。たしかにオマンコという言葉は下品で卑劣で低俗で不道徳なものとされています。オマンコという言葉の響きとオマンコという言葉の書体によってオマンコを聞く者とオマンコを見る者に不快な思いをもたらすことがありえます。しかしながらオマンコに付随するそれらすべての特性が単なるオマンコという言葉とオマンコという文化の問題で片づけられてしまうことに純粋なる疑問を抱いたことも事実でありまして、決してオマンコのオマンコによるオマンコのための議論に終始していたわけではありませんことを、みなさまどうぞご理解ください。

『全国マン・チン分布考』の著者である松本修氏は次のように主張しています。

男根語は比較的気軽に口に出せるにもかかわらず、女陰語はまったく言えない。これこそ女性差別以外の何ものでもない.....大正時代からの約100年、女陰語が事実上、言葉として抹殺され、まったく発することができない状況は、女性差別と言うしかありません。「オチンコ」が言えるのなら、「オマンコ」と言って何が悪いのでしょうか。もしも「オマンコ」が今となって卑猥に聞こえてしまうなら、京都で近年まで女性のための上品な言葉として使われてきた「オソソ」と言っても構いません。日本も男女平等を目指すならば、この男女差別の状況を変えなきゃいけないでしょう

考えてみると、男は物心ついたころからおちんちんを触りながら日々研究熱心です。女はそうでもない。数年前くらいから女性誌などで「女性のための性教育」とか「女性のためのAV」なるものが提唱されてきました。中学生の頃、保健の授業で性教育を教わったとき、男子と女子は別々の教室でその授業を受けていました。男子は男子だけの集会において男子教師によって「おちんちん」の仕組みを通して男子のアイデンティティを認識させ、「おまんこ」の仕組みを通して女子という他者を認識する術を学ばせていました。おそらく女子は女子だけの集会において女子教師によって.....以下省略。

でもホントにそれで良いのでしょうか。性の営みが男子と女子の共同作業であるならば、男女が同じ教室で同じ図解や模型を目の前にしながら疑似経験を共有することが重要なのではないのでしょうか。男子は男子で、女子は女子で。そういった風潮は女性誌の「女性のための性教育」についても言えるのではないでしょうか。あっちとこっち。いつまでも対立した構図の中で、男女それぞれの性別の視点からしか性をとらえることができないと、実際の性の営みにおいても、男女それぞれの役割遂行に徹することしかできず、愛を形作ることはできないのではないかと。思うのであります。

結果、自分勝手な性行為が成立してしまうこともあります。自分が気持ちよくなるためだけの営為であれば、それはもはやコラボレーションではない。単なる答え合わせと同じだ。男は男、女は女で、個別的に培った知識を実践において摺り合わせるのです。それはまるでツーバイフォー建築のようです。一方で、熟練大工の匠の技には愛が詰まっています。アソコとアソコを摺り合わせるだけで何が生まれるというのでしょうか。ポリネシアンセックスのように、ジックリと時間をかけることが簡単ではない現代社会。いまこそ自らを解き放ってアソコを口にするのです。プラはアソコに入れてください。