君の膵臓をもらいたい

「術中覚醒」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 読んで字のごとく「手術中に意識が回復すること」です。全身麻酔していても時々起こるらしいです。麻酔によって意識はなくなりますが、麻酔が効かなければ意識が回復します。意識が回復するから「痛い」です。「痛い」と叫べば済む話。ところがそんな簡単にはいかない。なぜなら執刀医は手術をスムーズに実施するために筋弛緩剤を打つからです。筋肉の動きが緩んだ方がメスを入れやすいですよね。つまり意識はあるけど筋肉を動かせないから目も開けられないし、言葉を発することもできないし、とにかく「痛い」のを我慢するしかないみたいなのです。

ちなみに術中覚醒は2万件に1件の割合で起こるらしいです。他の調査によると600件に1件起こるということで、どれが真実かはわかりませんが.....。

なぜこんな話をするかというと、脳死患者についても似たようなことが起こっているからなのです。『私は臓器を提供しない』という本があります。臓器移植に関してはメディアの報道では圧倒的に肯定的な視点が優勢ですが、この本ではいろんな立場からの「反対」意見が寄せられてます。

医師の立場からは、ドナーカードを所持した救急救命患者に対して適切な処置を施すことを故意に怠り、脳死を待つ方針に早々と切り替えるケースに対する批判があります。思想家の立場からは、臓器を提供する者と提供される者それぞれの了解のもと、誰が手術するということも分かるようにしておくべきだとの提言もあります。仏教者の立場からは、他者の死を待ち「死体を食らってまで延命を図ろうとする」のは我執すなわち自分に対する執着に他ならない反仏教的態度であり、「布施」の精神として美化されるものではないという反論もあります。ジャーナリストの立場からは、臓器を利用資源と考える臓器移植医療を「悪魔」と呼ぶものや、死亡した本人の意思を過度に尊重して、残された人々の心情を無視しているという怒りの声もあります。

臓器移植報道の典型は、ドナーではなくレシピアント側にいかに臓器が運ばれるかといった「命のリレー」の美談ですよね。大抵は臓器を必要とするレシピアント側の視点に立ったものです。

あまり知られていないけど、「ラザロ兆候」というものが頻繁に見られるらしいです。脳死患者から臓器を取り出す際に「死体」がピクッと動くのです。動き方が半端じゃなくて、手を合わせたり、涙を流す「死体」もいるそうです。ちょっとショッキングな真実を。脳死で死んでるはずなのに、臓器摘出の前に必ず全身麻酔するらしいです。脳死が「死」を意味するのであれば、なぜ全身麻酔する必要があるのでしょうか.....。

仮に全ての条件をクリアできたとして、将来的に全ての臓器が移植可能になったとして、移植のために臓器摘出された後に、骨と皮だけで中身スカスカの遺体を返却された遺族は何を思うのでしょうか。ドナーカードをお持ちの方、もう少しきちんと考えた方が良いかもしれませんね。

アメリカの臓器移植事情は日本よりも進んでいます。おそらく「脳死」を「死」と解釈して臓器を有効利用する功利主義的な風土が生んだ医療慣習なのでしょう。ですから「脳死=殺人」という解釈が成立するならば、アメリカでは日本以上に医療の名を借りた殺人が行われているということになります。アメリカでは「死」よりも「生」の方に関する議論の方が活発です。人の「生」はいつから始まるか。分かりやすいのが中絶をめぐる議論ですよね。中絶は殺人か否かという何十年も前から今でも続く議論です。

実は最近アメリカでは「脳死=死」という解釈を覆す医学的見地が注目を浴び始めています。つまり「脳死=殺人」という解釈が広まりつつあるということです。それを認めたうえで「殺人」もやむを得ないという意見を論文で述べている研究者もいるくらいです。

ラザロ兆候ですが、放っておくと、しばらく生きているそうです。心肺停止するまで最長20年間生きた脳死患者がいるそうです。「脳死=死」が主流である点でアメリカと日本は変わりはありません。しかしアメリカではすでに「脳死=殺人」という解釈が、哲学者らの倫理トークではなく科学者による研究において日本よりも何歩も先を行く議論の中で繰り広げられているようです。詳細はボクにも分かりませんが。

いろいろ書いたけど、整理すると、ボクは決して臓器移植に反対ではありません。臓器移植を批判しているのではなく、臓器移植を無批判に受け入れる市民や、緻密な研究を怠る研究者に批判的なだけです。臓器提供したい人はすれば良いと思います。ただボクは提供したくないし、提供されたくもないです。臓器提供したい側またはしたくない側(ドナー側)の意思表示手段はあるのに、臓器提供されたい側またはされたくない側(レシピアント側)の意思表示手段がないのも問題ですね。過去にエホバの証人の輸血拒否事件というのがありましたが、臓器移植拒否もそのうち事件化するでしょうね。本人が事前に登録する手段がなければ、残された家族が決めるしかないのでしょうね。

尊厳死安楽死についても言えるのですが、ボクはこの手の問題は個人の権利を頑なに尊重する必要はないと思います。残された家族の意思が尊重されるべきだと考えているからです。ボクは自分の家族が植物状態になったとき、たとえ本人が尊厳死を希望していたとしても、尊厳死を選ばず延命治療を選択すると思います。どんなかたちであっても生きていて欲しいとボクは考えるからです。では本人の尊厳死決定権とボクの延命治療決定権のどちらが優先されるべきでしょうか。おそらくそのときに両者の決定権が比較衡量されるのでしょうね。大変に難しい問題です。現在の法と社会は本人の自己決定権を重視するでしょう。でも、死に関して言えば、それは本人に全ての自己決定権が付与されるとは考えられないのです。死というのは、本人だけの問題ではなく、周囲の人々を巻き込む問題だと思うのです。他者危害の法則に則れば、人は他人に危害を加えなければ何をしても自由です。でも、残された家族に危害が加わっていないとは言えないのであれば、臓器移植も尊厳死も本人だけの自己決定権に委ねられない問題だと思います。

ところで、「尊厳のある死」を裏返すと、そこにあるのは「尊厳のない生」ということになるのでしょうか。尊厳の無い生って何だ?って思います。寿命ではなく健康寿命の重要性が叫ばれていますが、まるで人間は健康でなければ生きる価値がないかのように聞こえます。脳性麻痺を含む身体障害者に対する「本音」が垣間見えて情けないですね。もう少し賢く「善人」を装っていただきたいものです。

メモ:
 臓器移植の話のついでに。移植可能な臓器はどこまで含まれるようになるのでしょうね。日本ではまだですが、アメリカではペニスの移植手術が成功したしたそうです。ドナーからのペニスの提供によって、性を営む=生を営む喜びを再び手に入れた患者は大変に喜んでいるとのことです。ただし、今回の移植手術では、ドナーの睾丸は倫理的な理由で取り除かれたそうです。睾丸があれば子どもができる可能性があるからだそうです。それの何が倫理的に問題なのか。そうです、もし睾丸もセットで移植すると遺伝子学上の父親がドナーになるという事態に発展するからなのです。移植を受けた患者の生殖組織は破壊されているので、生物学上の父親にはなれないそうです。
 もし仮にボクがペニスと睾丸をセットで移植してもらったら、ボクの生殖行為によって生まれてきたボクの子供の父親は、ボクの子供ではなく、脳死したドナーの子供ということになる。つまりこれは体外受精というよりも代理母ならぬ代理父をめぐる問題へと発展するのです。ボクが代理父になるわけだ。でもボクは代理。では本人はというと、もう死んでしまってこの世には存在しない。本人不在の代理権行使ということか。そもそもボクには代理権がないのに代理人と称して生殖行為に及んだり、代理権の範囲を越えて生殖行為をしたりした場合は無権代理が成立するらしい。無権代理行為というのは、代理人が勝手にやったことだから、そのことをもって本人に責任が及ぶことはない。つまり死んでしまったドナーである本人にボクの生殖行為の効果は及ばない、したがって、生まれてくる子供はドナーである本人の子供ではなくなってしまう。生物学的にはドナーの子供であるのに、法的にはボクの子供になるということか。うむ~何だかよく分からないけど、これは大変だ。やはり思っていた以上に臓器移植は問題だな。
 ついでに。天才ドナーからの脳移植を受けたバカがセンター試験で満点とったら、それはカンニングと認定されるのだろうか。逆に、バカなドナーからの脳移植を受けた天才がセンター試験で落第したら、天才はその結果を不服としてドナーであるバカを訴えることができるのだろうか。