異性間慣習と同性間慣習

先日、学生達に対して自由討論を採用しました。テーマを与えて30分間で自由に討論してもらうというもので、テーマにはLGBTが与えられました。学生らは「自由」にLGBTについて議論しました。それぞれがLGBTの権利をどう考えるかというものに収まりました。例えばゲイ同士の結婚についてです。日本ではパートナーシップ認定ですが。驚いたと言えば驚いたし、驚かなかったと言えば驚かなかったのですが、全員の意見が見事に「一致」してLGBTの権利を認めようというものに終わりました。

つまらないなあというのが正直な感想です。おそらくですが、中にはLGBTに否定的な意見を持つ人もいるのではないでしょうか。少しくらいはLGBTの権利に違和感を覚えても良いのではないかとも思うのですが、とにかく不自然な議論で、中学校の道徳授業内で繰り広げられる寸劇を見ているようでした。

LGBTのパートナーシップですが、結婚でも同じことですが、そもそもパートナーシップを築いたり婚姻を結ぶのは異性間における慣習であります。異性間の慣習を取り入れることに固執する同性愛者というのは、いったい何事なのかとボクなんかは感じるのであります。異性間の慣習とは異なる慣習をこれまで築いてきた、そして今も築いているし、さらには今後も築いていくだろうと思われるほどの元気があるのであれば、それが空元気ではないのであれば、自らの慣習に則った別様なスタイルを築けば良いのではないかと思うのであります。なにゆえに婚姻やパートナーシップという古くからある人間関係構築の因習スタイルにこだわるのでしょうか。そのくせ彼らは自分たちを文化的アヴァンギャルドだと勘違いなさっている。先鋭的・急進的・革新的な文化の担い手であるかのごとく、わが物顔に闊歩しています。

おそらくこのような反論があることでしょう。相手に何かがあったときに病院等での面会許可を得るためには婚姻またはそれに類する認定が必要だからと。他にどうすることもできないというところまで考え抜いた末の決断なのでしょうか。本当にそうなのでしょうか。他に何か別の手段があったのではないでしょうか。なにゆえに異性間慣習に則った社会の枠組みに収まることに全くの違和感を感じないのでしょうか、そしてその自己矛盾な行為がその後の自分の主張に不利に働くことになる可能性があることにお気づきにならないのでしょうか。う~ん困ったわ、そうだ、困った時はお上に相談しよう、という具合にすぐに役所の認定をもらうという発想そのものが、あまりに古くさいもの、よって彼らが普段は批判の対象とする異性間慣習の中に見られる幾つもの古くさいものそのものであるということに、なにゆえにお気づきに「ならない」のでしょうか。いや、お気づきに「なれない」のでしょうか。

パートナーシップを認定されたことに喜び勇んで抱き合う彼ら/彼女らの姿を見ていると、なんと保守的な生き物なのかと呆れて開いたケツの穴が閉まらない事態に陥ってしまいました。勘違いしてもらいたくないのですが、ここまでこんなこと書いても実はボクは同性婚には反対ではありません。ただ、闘うのであれば、とことん闘う姿勢を見せて、安易に行政にケツを拭いてもらうことを選択するのではなく、もっと頭を使って異性間慣習に則って生を営む異性愛者をアッと言わせてもらいたいということだけです。とまあ、それくらいの議論をしてもらいたかったのですが、やはり無理なんですかねえ。