中国における環境と開発の系譜

1.環境と開発の対立/その系譜

持続可能な開発という言葉はすっかり世界中に定着したが、それは歴史的にはまだ新しい概念だ。開発を持続可能なものにしようとする発想は、実は裏を返せば、それまでの開発は持続可能なものではなかったことを意味する。資本主義が急速に発展する過程で中国も先進国を追いかけるように開発への道をたどることとなった。

東西冷戦時代に旧ソ連の影響も受けながら、中国は1953年から第1次五ケ年計画を開始した。これはソ連型経済を模倣したものであった。工業化を計画的に実践し、土地を改革していった。廃棄物による水質汚染はこの頃からすでに始まっていた。

その後、毛沢東社会主義社会の実現を早めるために「大躍進政策」を取り入れた。社会主義社会の実現は建国当初から考えていたことだ。生産手段を公有化し、ソ連式の重工業建設やインプット集約型農業政策を導入することによって、社会主義体制の確立を急いだ。「大躍進政策」によって生産量と生産力を高めることを計画した。ところが「大躍進政策」は思うようには運ばなかった。そこで毛沢東は鉄鋼の生産量を一気に増やそうとした。この政策によって首都の北京では工場が700,土法高炉が2000も建設され、煤煙が首都の大気を汚染した。多くの農民が鉄鋼生産に駆り出されたため、農作業を手放すこととなった。そのために農産物生産は減少し、食糧不足を招くこととなった。中国に緑が少ない地域が多いのは「大躍進政策」がもたらした樹木伐採が原因である[川名、2011:176-178]。それ以降、開発は加速化し、中国国内の地方都市のみならず山奥や辺鄙な土地にも工場が建てられるようになった。

とはいえ、他の発展途上国と同様に中国の経済発展も期待していたほど伸びなかった。にもかかわらず環境は少しずつ悪化していった。先進国の環境問題はそれまでの産業がもたらした開発に起因した。産業化によって先進国は豊かさを享受するようになった。だから大気汚染、水質汚染、廃棄物といった先進国の環境問題は豊かさの代償であった。豊かさが原因である先進国の環境問題とは異なり、中国をはじめ多くの発展途上国の環境問題は貧しさをその原因としていた。計画的かつ人為的に自然に働きかけるのではなく、目の前の貧困に対処するために自然環境を破壊することを余儀なくされた。貧困に対処するために工業化の道を歩まざるを得なくなったのだ。[藤崎、1992: 3-5]

そのような先進国と発展途上国の環境問題に対する距離感の差がしばらくは維持されることとなる。中国はその後も開発の速度を緩めなかったが、環境に全く無頓着というわけではなかった。実際、建国当初の毛沢東は「緑化祖国」を政策方針として打ち出していた。ただそれと平行して「大躍進政策」を進めて生産力を高めることに躍起になっただけだ。1963年には森林保護条例が制定されたが、法的拘束力を伴うものではなかった。世界の環境保護潮流に歩調を合わせることは怠らなかった。だから、一人っ子政策、改革開放と経済活性化、環境保護はどれをとっても不可欠な基本国策となっていった[宋、2008: 307]。経済活性化と環境保護が同時に国策となっていたが、それは決して持続可能性を考慮してのものではなかった。環境保護と経済活性化が相容れないものであることを前提として、表面上の政策理念と実質的な政策実現が共存していたものと思われる。          

先進国が考える環境問題と発展途上国が考える環境問題は決して同一のものではなかった。環境問題を孕む開発は一枚岩ではなかったからだ。先進国がそれまでにたどってきた道と同一の道を発展途上国が歩むという単純なものではないからだ。例えば日本の場合、水質汚染や大気汚染の問題がかつてはあったが、それらに同時に向き合ってきたわけではなかった。1つの問題に対処し、解決の方向性がみられた後にまた新たな問題が生じ、それに対処してまた新たな問題が生じる、という展開だった。しかし中国は後になって発展した国なので、先進国が経験した全ての環境問題と一気に向き合わなければならなくなった。様々な問題が最初から目の前に存在していたので中国が「環境問題のデパート」[小柳秀明、2010: 276]と言われるようになった所以だろう。

世界一の二酸化炭素排出国となった中国に対しては世界各国から何らかの働きかけを期待されるが、世界の論理と中国の論理を切り離す見方は少数派ではなかった。よく言われる「先進国のエゴ」という主張の背後には環境保護と経済開発が共存できるものではないという認識があったのかもしれない。環境と開発は対立するものであり、この二項対立を乗り越える道標が現れるまで世界は1980年代まで待つ必要があった。

2.持続可能な開発へ/その系譜

世界を環境保護に目覚めさせた第一人者はアメリカ人の生物学者レイチェル・カーソンであり、彼女の1960年代の著書『沈黙の春』は農薬問題について問題提起したもので、世界中の注目を集めた。これがきっかけとなって1972年の国連人間環境会議へと連なる。経済開発が環境に与える影響についての認識はすでにあった。ストックホルム会議(=国連人間環境会議)および環境と開発に関する世界委員会(通称、ブルントラント委員会)での報告書である『われら共有の未来』(原題「Our Common Future」)において初めて「持続可能な開発」という概念が提唱された。それは「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」を意味する。その後、1992年に開催された国連環境開発会議(地球サミット)において、持続可能な開発を達成するための以下の議題が提出された。

・大気の保全(気候変動、オゾン層の破壊、越境大気汚染などへの対応)

・陸上資源の保全(森林の消失、土壌の流失、砂漠化及び干ばつへの対       応)

・淡水資源の保全

・海洋及び沿岸域の保全並びに海洋生物資源の合理的利用と開発

・バイオテクノロジー及び有害廃棄物(有毒化学物質を含む)の環境上健全な管理

・有毒な製品及び廃棄物の違法な移動の防止

・生活の質と人間の健康の向上

・貧困の撲滅と環境の悪化の阻止による、貧しい人々の居住条件及び労働条件の改善
                                                             『国連の手引き/環境と開発』

この会議には先進国のみならず開発途上国の参加も不可欠とされた。地球規模の環境破壊は、その大部分が先進国の経済活動によってもたらされたものであるにもかかわらず、開発途上国もまたそこから発生する危害を免れることはできないからだ。加えて、先進国は経済活動によって利益を獲得したという立場の違いもある。そのため、先進国と発展途上国の間には環境問題に対処する際の関与の仕方に多少の温度差が初めからあった。

先進国が環境保護環境保全に対して積極的な関心を持っていたのに対して、発展途上国は「環境に対する配慮は先進国が当事者として担うべき問題である」として軽視する傾向にあった。同時に、途上国には先進国に追いつこうとする欲望があり、先進国でのコストを軽減するために産業を誘致して、まずは工業化を徹底化して、後で汚染を癒やそうと考えていた。それは中国も例外ではなかった。当時の中国では環境問題は「資本主義社会が内包する特有の問題」であり、「社会主義国家に環境問題は存在しない」という政治最優先の時代背景があった[思、2013: 155]。

しかしそのような環境と開発の対立に解決策を見出したのがストックホルム会議であったとされる。この会議では発展途上国と先進国の観点が互いに異なっているのがまずは確認された。先進国もかつては現在の発展途上国にみられる環境問題を直に経験していたし、発展途上国における環境問題のほとんどが低開発の結果であると認識することを互いに共有することができた。様々な環境問題が発展途上国の開発を困難にさせていた。かつて発展途上国の共同体単位で行われていた農業に関する伝統的な管理方式も改めて先進国側から見直されるようにもなった。つまり、ここにきて初めて先進国と発展途上国の外面的対立に対して双方が向き合うことができたのだ。そしてその結論として出された概念が「生態学的開発」すなわち「人間の利益のために環境を生態学的に健全に積極的に管理すること」[国連の手引き/環境と開発:7-8]であり、同時にそれは「持続可能な開発」が目指すものとなった。これまで対立するものとされた環境と開発を対立しないものとして解釈する方向性が確認されたのだ。

中国内では1974年にすでに「環境保護領導小組」が設置され、1979年には「機構改革(行政改革)」が実施されて「環境保護局」も設置されていたが、地球サミットでの双方の認識を確認したのち1993年に地方行政改革が実施されて、全国全ての省と自治区において「環境保護局」が設けられることになった[恩、2013: 156]。

中国における環境対策にはNGOが担う役割が不可欠となる。それまでは国家が主導して環境保護対策に臨み、社会はどちらかというと受動的な立場であった。しかし地球サミットの後、政府が環境保護への市民参加を呼びかけたことによって、社会や市民が環境保護環境保全に対して主体的に従事できるようになった。その頃から多くのNGOが様々な関心を世論から獲得できるように努力し、現在の環境教育にもつながるようになった[恩、2013: 158]。こうして環境と開発が対立するものではなく共存する立場であることが確認されてから、持続可能な開発はすっかり現代社会のスタンダードとなっていった。

3.持続可能性の検証

かつては対立し合っていた環境と開発が「持続可能性」という概念によって新たなステージへと向かっていたものの、「持続可能な開発」という言葉には、その実現可能性を疑う否定的な意見も含め幾つかの批判もある。

「持続可能性(サステナビリティ)」という言葉は最近では環境問題や開発経済以外の分野でも使用されるようになっている。「環境にやさしい」や「地球にやさしい」という表現と同様に、環境問題を第一に考慮しているという印象を与えるからだろうか、企業PRでも約束事のように使用されている。しかし「持続可能である」とは、生態系の持続可能性を意味し、環境保全することを必ずしも意味するわけではない。絶対的な規定というよりもむしろ努力目標のようなものだ。耳に心地よいフレーズではあるが「持続可能な開発」は決して楽観的に将来を考える材料をわれわれに提示しているわけではないことも指摘されている。例えば「開発は人工的に環境をかえてしまうことだから、本当の意味での持続的ということはありえない」[沼田、2002: 43]といった具合に。

持続可能性という言葉は誰の耳にも心地よいという意味で万能変数である。しかしこの概念の詳細に踏み込もうとすると、持続可能な開発が持続不可能なものへと格下げされる。「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」という「持続可能な開発」の定義は、何かをきちんと説明しているようでいて、実はきわめて曖昧な説明であることは、リチャード・ノーガードが主著『裏切られた発展』で述べる以下の説明に触れると明らかになる。 

消費者は消費が持続することを望む。労働者は仕事が持続することを望む。資本主義や社会主義の信奉者はそれぞれの「主義」を持っているし、貴族主義者、独裁主義者、官僚主義者、テクノクラート(技術政治主義者)もそれぞれの「主義」を持っている。これらの主義はいまやすべて、地球的な生命維持システムの崩壊によって脅威にさらされている。持続不可能な進歩をおおっぴらに主張すれば、信用を失いかねない。したがって持続可能性という概念は、部族の民にも博識な学者にも、土地無し農民にも産業的な農業従事者にも、ジーンズを履いた環境保護活動家にもスーツを着た銀行員にも、訴えかけるものを持っているし、人々から要求される。ところが、すべての人々にとって持続可能性という言葉が意味するところは何かしら異なっている。こうして、持続可能性を求める旅は不協和音とともに始まっている。                                                                                             [ノーガード、2003: 18]

われわれはまだ持続可能な開発を評価するには時期尚早なのかもしれない。それでも何もしないよりは良いということだろうか。環境保護環境保全に向けて様々なアクターが立ち上がり、働きかけを行っている。持続可能か持続不可能かの結論は先送りするとして、持続可能な開発に向けた持続可能な環境教育の今後に注目したい。

 

[参考文献]

 

川名英之(2011)『世界の環境問題/第7巻中国』緑風出版

国際連合広報センター(1992)『国連の手引き/環境と開発』

小柳秀明(2010)『環境問題のデパート中国』蒼蒼社

思沁夫(2013)「中国の開発と環境/「生態文化」の視点から」『OUFCブックレッ ト』大阪大学中国文化フォーラム

宋献方(2008)「中国の環境問題の特徴および中日協力への展望」榧根勇編『中国の環境問題』日本評論社

沼田眞(2002)『環境問題の論点』信山社出版

藤崎成昭(1992)『発展途上国の環境問題』アジア経済出版会

リチャード・ノーガード(2003)『裏切られた発展/進歩の終わりと未来への共進化ビジョン』勁草書房